<玉井瑞夫繧繝彩色塾>

           ☆  ワンポイントレッスン (21) ☆          月例会先生評(2003年7月)               < 1440コマの展覧会 >     

   ある程度齢をとれば、わかることとどうしてもわからないことがあることが、かな
  りはっきりわかってくる。もちろん、そのわかり方は人ざまざま、ほとんどの人が一  
  致したわかり方をするのが良い社会だなどとは、ぼくは思っていない。
   写真表現における問題での正解も、物理化学的なことだけで、他はとりあえずこん  
  なものかといった答があるだけだ。
    
 こんな前書きから始まったのは、今月の例会作品を眺めているうちに、全体に方向感がな
く、混迷のなか何か手がかりをつかもうとしている様子がうかがえ、ふと思い出したのが、
1970年代にあったかなり風変わりな写真展のことであった。
     
 1950年代の土門拳のリアリズム論はすでに述べたが、土門さんのこれだけが社会的現
実そのものに直結するという『絶対非演出の絶対スナップ』の後、1960年代はコンテン
ポラリ−・フォト(同時代的な写真)の時代になった。                
     
 コンテンポラリ−・フォトについては、またチャンスを見て話すことがあろうが、その素
朴極まりのない撮影の手法は、ある種の居直りを感じさせる。コンポラ写真にあってはこれ
までの写真の一部に見られた大げさに気張ったことにたいする冷笑、リアクションがある。
 そして、個人の内側にとじこもりがちである。それは外へ働きかける力がどんなに無力で
あるかを思い知らされた諦観の現れなのだろうか。いづれにせよ激しい動乱のさなかには生
まれてこない写真であった。
    
   
 ついで、1970年代はアンチフォトグラフィ−といった変化も出てくるが、この展覧会
はそのさきがけで、1972年に銀座のニコンサロンで展示された。
 この写真展のテ−マは、「写真表現とは何か」という主題で、写真大学の教授が中心にな
り、学生諸君が協力したという。
    
 作品は、35ミリのフィルムをストリップのまま引伸ばしたようなもので、会場の上から
下まで会場いっぱいに、1440コマの写真が貼られていた。
 この写真は、車に35ミリカメラを固定し、1分間隔でシャッタ−が自動的に切れる装置
をして、新宿駅を午前0時に出発し、走りながら都内各地を撮影して24時間目にまた新宿
駅まで帰ってきたという。つまり、この1440コマの写真が、「写真表現とは何か」とい
う問題を提出したものだという。
     
 こうした試みは、いずれ誰かがやるだろうとの予想はあったがこの混乱期、いずれ写真界
の突張り屋がやるだろうと思っていたものが謹厳実直な先生がリ−ドしたことは、ちょっと
した話題になった。                                
 とにかく、ぼくはこの撮影に参加した学生に質問した。「ファインダ−を覗くこともなく
カメラのシャッタ−を押しさえすればよいということで、なぜ君の作品になり得るのか」と
聞くと、彼は「自分はここに存在していたということが立証され、ある日、ある時、ある所
に自分がいたということが、この写真によって記録され、明確になった」、「これで写真の
意味は成り立つ」という。                             
    
      
 この写真展は、リアリズム写真としてこういう考え方をする人間もおるということがわか
った。また個々の写真には見るべきものがなかったが、初めてのイベントとしての価値を認
めるというア−チストはいた。しかし、それはニュ−ヨ−クの若い芸術家たちがたむろする
ソ−ホ−で、アイオ−等がすっ裸で街中を走つたストリ−キング同様一回限りのものである。
     
 この影響はすぐ現れた。それは他の大学の一応優れた写真学生だったが、彼は「東京」と
いうテ−マで、アトランダムにただ、カメラを持ってバスに乗り、あるいは車に乗り、また
歩いて、無方向的に放浪し、その折々に何かをとらえ、シャッタ−を押した。そんな中から
選んで、アトランダムに展示したに過ぎない展覧会であったが、この作品は一応の価値を認
められ、雑誌、年鑑にも掲載された。それは感性と構成力の違いにあった。
                                       
     
 とにかくこの時代は写真表現の根底的な問題、それぞれのリアリズム論、その発展過程に
おける意見の相違、衝突は相当なものがあった。ぼくのような人間の手でもって映像を変化
させてゆくア−ト派といわれる写真家たちも、コンポラ写真群をまったく無意味、かつ不毛
なものとして否定したわけではないが、お互いに全く譲ることはなかった。
     
 ぼくは、相変わらず写真の枝葉末節にはとらわれず、写真芸術の一環としての写真表現の
開発、拡大に夢中で、言うことも相変わらず、『ア−トとアンチア−トとは、地続きではな
く大きな亀裂がある。これは飛ばなければ越えられない。可能なのは飛躍だけだ。』と、弟
子たちに説教していた。                              

        

< 月例 7月講評 >

   
 今月の例会作品が全体に方向感がなく、混迷のなか何か手がかりを模索中というぼくの判
断は、手っ取り早くいえばスランプということである。そんなことからもっとリラックスし
て考える一助として、ちょっと風変わりな写真展の紹介をした。これも歴史の一コマ、一応
知っておいてもらいたい。
      
 そんな中で、ぼくの注目した作品は少なく、まずその2点から講評をする。
 その他の多くはまずセオリ−を理解し、観察力のレベルアップと直感力がより大切という
ことになる。
 なお、作品の質に関係なくワンポイントレッスンを必要とするものは掲載したが、その他
については、それぞれ長期出張や入院など健康上の問題やテ−マの練り直しをすすめたり、
本人の不本意な出品を考慮して今回は掲載しなかった。

    

「Construction」 西浦正洋
    
 これは、なかなか見ごたえのあるビルである。カメラ・アングルと明暗のバランスがとれ
たグラデ−ション、最後に視線の集中するキ−ポイント、地上のフォルムも美しい。
    
 この写真にはソラリゼ−ションなど加えてあるようだが、これだけの場所ならストレ−ト
な表現で1ダ−スくらいの建築写真が撮れる。この1点の写真ではわからないビルの質感を
生かした部分のアップも欠かせない。またこのビルのある環境のカットも見たいもの。もち
ろん、地上の入口付近の表情も加えて、最低5点ぐらいの組写真で構成するのがプロの見せ
方である。
 2点のカラ−写真は、何を表現したいのか、やや行先知れず。なろうことなら黄泉のなか
でも極楽の方へいってもらいたい。

        

「グリーンローズ」 岡野ゆき
    
 この写真を見た瞬間、花びらの調子が固過ぎて、造花を見るような感じがしたが、荒削り
ながらユニークな構成が見られるので、それをリファインすることを考えて見た。
 まず、斜め左下に出ている不明瞭な緑を消し、右上の部分をもっと暗く焼き込んでしまう
と非常にシンプルなフォルムでバランスがよく、見違えるようなダイナミックな作品になる。
 もちろん、花びらは非常にソフトなグリーンと質感を表現し、上のシャ−プな葉とのグラ
デーシヨンの対比がキ−ポイントになる。
    
 「スクエア」は、はじめ何を意味するものかわからなかったが、やや暗い床に映った影の
子供と上の四角いホワイトとの対比がなかなかのものだと判明した。でも、子供のポ−ズに
面白味がない。ポ−ズに妙味があれば、ちょっと変わった作品になっただろう。
 ぼくは、この空間をネコが飛び、床にはニワトリがいるイメ−ジが浮かんだ。 
 もちろん、それらは動きのあるシルエットである。

         

「上臈参拝〜先帝祭」 藤本茂樹
    
 藤本くんは、このところ祭りづいているが、後一歩がむつかしいことを痛感していること
だろう。ぼくの写真家の友人には世界の祭りの専門家、芳賀さんがいるが、ぼくの弟子にも
日本中の有名な祭りを撮っているものがいた。
    
 2人とも同じ祭りを何回も撮りに行くわけだから、当然顔を顔を会わすが、プロが見る目
は、ほとんど同じポイントになるという。水平では写真にならぬところは、高所からの俯瞰
もある。つまりバックが整理されたところで、主題が引き立つところはワンポイントしかな
いといったことである。
     
 ぼくが選んだのは、「上臈参拝」でペアの2人の衣装とバックの色調がよく、このバラン
スなら相当の大伸ばしに耐える作品になっている。だだ、後わずか左右と手前に余裕が欲し
いところである。
 No.1は、もう少し舞う人物を大きく強く見せる工夫を。No.3、4は、カメラ位置
の数インチの差で成否が決まるというユ−ジン・スミスの言葉どうり、バックの整理に注力
し、表情にも動きが欲しい。

   

「ホネガイ」 上田寛
    
 この作品は、後一歩というところまでできているが、最後のつめが足りず惜しい。
 画面の右3分の1に力がないのは、バックのあまい色と貝の先端までライティングに神経
が行き届かず、あいまいだからである。右のスペ−スも後1センチ必要だ。
     
 「好奇心」は、せっかくの良いチャンスが前景の女性が入り過ぎて印象を弱めている。
 子供の写真は、つい笑顔のかわいい写真ばかりになりがちだが、環境やバックを生かし、
体全体の表情、その仕草が物語る写真を心がけると第三者にも通じる奥深い作品になる。
 ウイン・バロックの「森の道を歩く子供」(Part23)などその代表例である。

 

「帰りに一杯」 嶋尾繁則
    
  嶋尾くんは、風景を撮らせると画面の隅々まで神経が行き届き、一応卒なくまとめるが、
スナップ写真になるとまったく人が変わってしまったように散漫になる。
 もしかすると、スナップは雑然とした表現が当たり前、それを整理するなど不可抗力と戦
うようなものだと思いこんでいるのではなかろうか。
    
 たとえば、「少年と鳩」「言葉を越えて」は、いずれも肝心の鳩と人物がバックに食われ
てしまっている。どうすれば、主題が浮かび印象深く表現できるか、カメラポジションとシ
ャッタ−チャンス、更に冷静にレンズの長短の選択を考え、臨機応変の対応が目的の達成に
つながる。
    
 「帰りに一杯」は、ノレンをかきわけて出てくるチャンスもあるが、このノレンをシンプ
ルな舞台装置・バックとみて、この前を往来する動物や気のきいたアベック、人物を待って
写すなど、見方もいろいろであろう。

  

「晴れた日」 大住恭仁子
    
 相変わらず彼女特有の思いきったトリミングである。しかし、行き過ぎるとその物のボリ
ュ−ム、力を損ない舌たらず、アンバランスになる。尤も「晴れた日」は、上と左右をわず
かにつめた方がよい。
    
 「泰山木」は左側が後1センチないとバランスがとれない。「蔦」は、下部のキャンバス
らしきものはカットした方が明快で密度が高くなる。
 「かすみ草」は、どうにも理解できない構成である。かすみ草をテ−マとした時、この机
とカ−テンは大切な副材なのだろうか。このままの構成なら「無題」とすべきであろう。
    
 この作者の行き過ぎるアンバランスを直すには、写真を逆さまに見たり、横画を縦にして
見たり、ぐるぐる回してどちらから見てもバランスが狂っていないものを心がけると、アン
バランスのバランスも分かるようになるだろう。
 大住くんが気にしていた写真の調子は、だいぶん良くなってきた。

 

「猪苗代湖」 横山健
   
 まだ、写真をはじめて1年に満たない横山くんの写真に、方向感が定まらないところがあ
るのは致し方ないが今月の提出作のうち、「ダブルボギ−」「入口」「風車」は、この表現
で何を伝えたいのか、判然としない。
 写真は視覚言語ともいわれるが、写真の特性を生かしたフォトジェニックな表現とはどう
いうことか、この辺を再度考えて見る必要がある。
     
 この「猪苗代湖」は、活気のある渡り鳥の大群の声が聞こえそうなシ−ンである。
 写真家がある情景を写真として第三者に伝えようとする時、数量的、象徴的な表現をする
ものだということはこの講座で述べてあるが、さらに自分の感動をどのような構成、チャン
スで表現するかということが横山くんの次の課題である。
     
 たまたま、ぼくはこの現場でこんな「猪苗代湖」のシ−ンを、はるか昔に見たことがある。
 それは大和紡績のポスタ−を撮るため、この湖の上にあるスキ−場を訪れたことがあった
からだ。モデルは若き日の三浦雄一郎氏で、雪庇のような小さなジャンプ台から空中へ飛び
出し、スキ−を逆ハの字に開いたところを、ぼくは仰向けに寝て真下から写した。
 撮影後は、スキーのレッスンをしてくれたがお父さんを始め三浦一家の暖かいサービスと
チームワークのよさには感心したものである。

  
< 追 記 >
「 男性ヌード試作考 」
    
 阿部くんの一連の月例写真を見て、これから何が始まるのかまるで見当がつかなかった。
    
 それが、彼からの電話で、「女性のヌ−ド写真はたくさんあるが、男性のヌ−ド写真はほ
とんど見かけない。男性のヌ−ドを撮りたいが、どんな意識でのぞめばよいものだろうか」
という話でぼくは一瞬、返答に窮した。                       
   
 ヌ−ドもさまざま、彼が選んだこの平凡な男性をモデルにして、どんな意図でどんな男性
ヌ−ドを撮りたいのかというぼくの質問への彼の返答は、漫然として要領を得なかった。
   
 そこで、すこし理屈っぽいものなら、ぼくの友人細江英公君が撮った三島由紀夫をモデル
にした「薔薇刑」など参考になるだろうと口に出かかったが、それはやめた。      
 というのは、このセミヌ−ドは当然自己顕示欲の強い三島の希望も入っていると思われ、
あの難解な三島文学と彼の生きざまをある程度理解しないと分からないと、ぼく自身が思っ
ていながら、安易に阿部くんに進めるわけには行かないと思ったからだ。
    
   
 ぼくは世界的な視野で見ても、男性のヌ−ド写真集で欲しくなるような厳しい作品にお目
にかかったことがない。それほど純粋な男性のヌ−ドは、女性ヌ−ドより難しいと思う。 
 一般向きには、いわゆる男性タレントのポルノめいたヌ−ド写真があるが、そんなものは
論外である。甘ったるい男性ヌ−ドは生理的に薄気味が悪い。
    
 はっきり割り切って、男のエネルギ−の象徴としての男性セミヌ−ドなら、世界的な運動
選手、カ−ル・ルイスやハンマ−投げの室伏など、競技の種類によるそれぞれに特徴のある
鍛えられ方をした肉体の美しさならぼくは撮ってみたい。               
 全身的バランスからは体操の選手や男性のバレリ−ナなども良かろう。ボデ−ビルダ−は
ただの筋肉マンのようであまりいただけない。                    
    
 それよりも、ぼくは日頃から一度は撮ってみたいと思いながら、テレビで見るだけで果た
していない動物のヌ−ドに馬がある。生涯を走ることのみを運命づけられた競馬のサラブレ
ットには、気の毒と思う一方、あの肉体や毛並みの見事な美しさには悲壮感さえ覚え、いつ
もほれぼれと見る。 
     
 とにかく阿部くんが本格的な男性ヌ−ドを目指すなら、しつかり褌を締めて5〜10年は
かかるだろう。それを見るには、とてもぼくの寿命が足りるかどうか。         
 阿部くんとの話は、このプランの練り直しを勧めながら、本筋を離れたこんな雑談、余談
になってしまった。
     

(註)
  塾生各位の個々の写真についての質問などあれば、僕が在宅する確率の多い
  週末から週はじめ3日間位に、電話をしてくれば、僕が居れば即答できる。
  その時の僕の都合で再度、時間帯を変えて電話してもらうこともある。  
  居なければ家人に在宅日を聞いてもらいたい。           
  僕はパソコンで書くより話す方がずっと楽なので、遠慮なく。   
  (在宅の確認は管理人ゆきに聞いても、だいたいの予定がわかるだろう)

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