<玉井瑞夫繧繝彩色塾>

           ☆  ワンポイントレッスン (20) ☆          月例会先生評(2003年5月)          < 作品への第一関門を目指そう >           

  「今月の月例講評は、思いっきり僕流の毒舌が発揮できそうで気分が良い。」とい  
  うのは塾生諸君の動向に何となく陽気の漂いを感じるからである。一言でいえば、  
  プラス気配といったことか。
    
 もう2年以上も前になろうか、2000年7月、このHPの管理人「岡野ゆき」に写真を教え
はじめたのがキッカケで、ついでにその友人たちも併せて面倒をみようといったことから始
めた写真塾だったが、ここまで大過なく続くとは、ぼくはまだしも弟子や友人たちには、ま
ったく稀有な出来事に見えるらしい。
      
  ぼくが若い時に貼られた「気が短くて、頑固。自分勝手にやらねば気が済まない」という
ラベルをはがすのは容易でない。つい先頃も古い弟子たちとのパ−ティで、一番控え目だっ
た弟子に向かって、「オイ、君だけは僕のゲンコをくわなかっただろう」と言ったら、「と
んでもない。やった方はお忘れでしょうが、やられた方はしっかり覚えてます。」との返事
には恐縮した。でも、張りつめた撮影現場で飛ぶ厳しい無言のゲンコや個人的な凡ミスをい
ましめる、軽いジョ−クつきのゲンコなど、師弟のスキン・シップとして懐かしい想い出に
なっているようだった。  
     
 余談になったが、好奇心の強いぼくは、「インタ−ネット上の顔も見たことのない弟子と
師匠がどれだけ話が通じ、写真が上達するものか。そんな実験も大切だろう。」といった考
えもあってのつきあいが続いている。
 顔が見えない、ゲンコがとどかないやりとりは、双方ともにどこかに遠慮があるように思
う。本音、覚悟のほども微妙なところはわからない。でも、ぼくはそれらを自戒しつつ、ぼ
くのモット−とする本当のことしか言わないということを更に徹底して行きたいと思う。
     
   
 改めて、ぼくがこんなことを言うのは、今月提出された写真にそんな態度で接していきた
いと思える作品の片鱗が感じられたからである。それは創作を志すものが当然最初に行き着
く第一番目の関門で、こうした片鱗が全員に広がることを期待したい。         
 この変化は、3月の月例であまりの不甲斐なさにあきれ、ぼくが苦言を呈したことへの反
省とは見ていない。それは、土壌が養われ、芽生えてきたものと思う。
     
 限りある命、残り少ない時間をぼくは、まっすぐ本当のことを言い、有効に過ごしたいと
思う。でも、切端つまった考え方はしたくない。                   
 上を見れば、すべてにあやかりたい聖路加病院の大先生、93歳の日野原大先輩もいらっし
ゃる。先生のお体と頭脳は現役並み、いやそれ以上である。先生から見ればぼくなど、まだ
まだ若造であろう。
     
 しかし、ぼくの体は、日頃の鍛錬をさぼってきたので、もう間に合わない。      
 頭の方は、出来が悪いのは致し方ないが、物を書いたりしゃべったりする以上、責任があ
るので、週の半分は国会図書館の研究室で、世界の最新写真事情や好きなア−ト集を覗き見
しながら原稿も書くというのが日常である。また気の赴くままに他の図書館にも行ってみる
が、本や資料を捜して歩くのも年配者にはいい運動になる、いづれにしても図書館は冷暖房
完備で無料、実に恵まれた場所だと思う。
     
 そんなわけで、ゲンコ代わりのぼくの批評は、今月からは殊に厳しく感じるかもしれない
が、単刀直入、至極当然の発言をしたいだけだ。また、めったにないかもしれないが、ぼく
が諸君の作品や姿勢を認め、こんなところは良いと言うことがあれば、それは素直にそのま
まストレ−トに受け取ってもらいたい。                       
(とにかく、もう2年を経た今日、塾生諸君はぼくの厳しい言葉に落ち込むこともひるむこ
 ともなく、またほめ言葉にのぼせることもなく、自分自身を過大評価することも過小評価
 することもなかろう。)

        

< 月例 5月講評 >

   
 今月の出品作には、特に秀作・佳作と認められるものはなかった。
 今回の講評は、上記の前書きで話題とした問題に関連する作品を主体として解説し、掲載
する作品も問題あるもののみとする。
 その他の作品は、特に秀作・佳作でない限り掲載せず、講評も簡略化あるいは省略する。
      
 今回は、月例講評の後に、人物写真の第一人者リチャ−ド・アベドンの変身ぶり、高度の
個性化の具体例と誰しもが苦労する画面の統一について、色彩の魔術師エルンスト・ハ−ス
の音楽的センスで構成する具体例を掲載、解説する。
 それらの作品は、ぼくのいう「第一関門」を通り越し、その先に生まれた作品である。

    

「Shall we dance? 2」 阿部政裕
    
 意味不明のポ−トレ−ト。意図不明の演出。
 このモデルの立場からいえば、もっとスム−ズな動きをとらえ、もっとスマ−トに撮って
もらいたかっただろう。
    
 しかし、阿部くんの立場を想像すると、何がきっかけかはわからないが、創作という得体
の知れないものにそそのかされて、何かこれまでに経験したことのない雰囲気のある写真を
撮ってみたくなったのであろう。これはまったくぼくの勝手な推量だが、大いに戸惑い、大
いに迷うこともいい。それは彼のすばらしい転機になるだろう。
 巻末のアベドンの作品を十二分に熟視、参考にされたい。

        

「ヌード」 大住恭仁子
    
 変わった表現である。一部に衣をまとったヌ−ドは、昔から非常に少ない。
 それはヌ−ド撮影時に、衣装その他のアクセサリ−を加えて、裸体をより美しく見せる構
成が非常にむつかしいからである。(下手なポルノまがいの写真は論外である)
     
 巻末に見せるアベドンの作品Dは、ヌ−ド作家のそんな常識をやぶる傑作といわれた作品
である。人物は表情を見せずアゴの先端だけという構成もすばらしい。この作品が示す肉体
の質感、迫力は参考になるだろう。
     
 大住くんの写真は、ヌ−ドというよりは、やせた女性のポ−トレ−トといった感じだ。
 これをリファインしてモノにするには大変な努力が必要だが、こうしたものにトライしよ
うとした姿勢には意義がある。

         

「ガーベラ」 西浦正洋
    
 これは、ちょっと怖い花である。
 ぼくは、「西浦くんもいよいよ始まったか」と思った。というのは、ぼくがカラ−を始め
たある時期に、まるで死人の世界にしか使えないような、薄気味わるい色彩の花ばかりを創
っていたことがあったからだ。もちろん、こんな写真は、コマ−シャルでは売れるわけがな
い。色に凝るとある時期、誰しもそんなところにはまることがあるらしい。       
    
 瑛九に見せると「そのうち治るよ」と、医者のような返事が返ってきた。
 西浦くんも2、3回経験すると治るだろう。瑛九のいう意味は、試行錯誤の末、色そのも
のやその組み合わせのバランスに冴えがでてくると、人が不快感や気味悪がる色彩にはなら
ないということが、数年後にわかってきた。
 とにかく、その端緒についたことは結構なことである。ついでながら、花の構成にも冴え
を見せてもらいたい。

   

「マネキン」 上田寛
    
  まず、この写真をどうすれば密度が上がるかを考えてみよう。
 このままでは、画面が間延びして単なる情景に過ぎぬと見られよう。
    
 主題を即物的に強調するため、上下左右をカットすると、面積としては半分近くなる。
 後は、天候、時間帯を選び、動的な人物、車や変化する光がオブジェ(洋服)に突き刺さる
ようにコラージュされる決定的な瞬間を捉えることである。殊に朝夕日没後など時間帯による
ドラスチックな光の発見は大切である。時にはストロボの利用も考える。
 講座の[Part16]のエルンスト・ハ−スの作品、ニュ−ヨ−クの「回転ドア−の光
りの反射」は参考になるだろう。
    
 昨今は、ショ−ウインドウのディスプレ−にすばらしいものがある。いいイメージを感じた
ら、根気よく決定的瞬間にこだわることである。静物風の風物が好みの上田くんのもうひとつ
のポイントは、構成、トリミングを厳しくすることである。同じ場所でも思いっきり変化のあ
る最低3枚くらいのカットも撮って、検討する必要があるだろう。

 

「おだやかな日に」 藤本茂樹
   
  今月の写真は、いずれもポイントをはずさず一応安心して見られるが、ぼくはこの2点セ
ットの作品が一番印象に残った。といってびっくりするような写真でもない。
 ぼくがこの2点を残したのは、来年度の家族写真のことが頭にあったからだ。
     
 家族アルバムをイメ−ジしてもらいたい。
 たいていは、顔写真と行事、出来事の退屈な羅列である。そんな写真のなかにこんな写真
を少し大きく引伸ばして入れるとどうなるか。ライフのフォト・エッセイをよく見ればその
効果はなるほどとわかるはずである。
    
 この写真には、記録だけでなく、撮影者のゆったりとした気持ちがあるのだ。少なくとも
一家の主人はこれくらいの余裕をみせる写真を撮り忘れてはいけない。     
    
 例えば、春の行楽のシ−ズンなら、春らしい家族の団欒で、いろいろな表情の顔、顔がず
らりと並ぶだろう。そんな中に、猫は主役ではないが家族の一員として、この一枚が加わる
だけで立派な家庭の組写真になる。そんなアルバムは第三者が見ても楽しさが増すものだ。
 プロは冷静にそんな計算のもとに組写真を作る。つまり、気持ち写真の大切さである。 

  
 「あげる」   森下弘
    
 ぼくは、こんな素直な写真に好感がもてる。
 そして、その次には、それをどんな表現をすれば、より多くの人々にわかってもらえるだ
ろうかと考える。                                 
 この場合なら、まず「あげる」という動作、ポ−ズがあいまいだ。両手をそろえて出した
方がはっきりするとか、もっとアップにした方が分かりやすいとか、カメラアングルやカメ
ラポジションを上下、左右と変えてみたらなどといろいろあるだろう。
 画家は手足の表情に随分工夫をこらすが、写真を写す人は無造作に片づける者が多い。
 コンテストの入落は紙一重、ちょっとした手の表情で明暗をわけた多くの例を思い出した
ので一言述べる気になった。
     
    
 「蔵」その他  岡野ゆき
    
 たいていの被写体を、何とかかまとめることはできるようになってきた。
 4点の中では、これが一番雰囲気がある。壁に映る複雑な木の影が表情を豊かにしている
からだろう。特長のある「壁」も卒なくまとめられ、特に言うことはない。
     
 ところで、「特に言うことはない」というところが問題である。
 ぼくが気にしていることは、岡野くんがこれで満足し、それ以上を望まないのなら、言う
ことはないが、物足りないと思うならこれから先は非常に厳しい覚悟がいるということだ。
     
 例えば、もしこれらをコンテストに出したと仮定しよう。結果は非常に幸運に恵まれても
平入選どまりであろう。このクラスは写真誌などの一番多い平均クラスだからである。一昔
前のちょっと出来る人の平均レベルなのだ。この程度では、自分史にも物足りない。
     
 ぼくがこのレベルを越えるコツを伝授することは、不可能であろう。究極は、彼女が岡野
流といえるだけの自分だけのコツともいえるユニ−クさを身につけねば通用しないからだ。
ぼくが出来ることは、それだけのものを身につけたかどうかの判定だけである。
     
    
 「コミュニケ−ション その他」 横山健
     
  まず、一見して非常に目につくことがある。
 この場合、若い「女」など肌荒れしているような調子で気の毒である。全般に写真のコン
トラストが強すぎる上に、グラデ−ションが荒れ、その狂いが印象を悪くしている。
 でも、たいして気にすることはない。写真歴1年ではこんなものだ。ぼくは世間に通用す
るプリントに3年かかった。
      
 写真を強く見せたいために、コントラストをあげる人があるがこれは間違いである。きれ
いなグラデ−ションが見られながら強いインパクトがある写真が本物だ。
 粒子を荒らした表現、ハイコントラストでもきれいに見せる作品は、高度の感性と技術が
必要で、それができればプロ級である。プロと称する写真家で大荒れの薄汚い写真を見せる
者がいるが、あれはコンポラもどきの贋物で世界には通用しない。
 この問題では、Part16の「書における階調」が参孝になろう。
      
 今回の写真は、何かを伝えたいという意欲はわかる。だが、写真が写ったというだけで、
その内容が見えてこないのは、ドラマをとらえようとする視点が曖昧だからであろう。
 すべて、「はじめ、できなくても努力すれば何とかなる。努力すればできるというのは、
最大の才能だ」とぼくは思う。焦らず、臆せずの努力を期待したい。
                   (参考作品)                                          ハイ・ファッションによる文明批評                                                リチャード・アベドンの作品       

 
 ぼくが、はじめて「ヴォ−グ」というファッション雑誌を見たのは、1948年大阪に出て丹
平写真倶楽部に入会した当時であった。それまでの四国の小さな田舎町では「主婦の友」と
いった婦人雑誌はあつたが、こんなシャレた外国の雑誌は本屋にも置いてなく、もし、あっ
てもネコに小判、何の興味も示さなかったろう。                   
    
 それが不思議な成り行きから写真雑誌の編集者に、続いて写真家になるに及んで、ぼくに
は一番遠い存在であった「ヴォ−グ」や「ハ−パ−ス・バザ−」などファッションの世界、
つまりそれらを専門とする写真家から多大な影響を受けようとは思いもよらぬことだった。
 ここでは、そんな写真家たちのなかからぼくがもっとも感銘を受けたリチャ−ド・アベド
ンを取り上げてることにした。一人にしぼつて観察すると、その人の作品の特質、変遷がよ
くわかる。
     
 彼の作品は、その写真集「オブザ−ベイション」(1947〜 1959)、「ザ・ファッション」
(1947 〜1977) を見ると一目瞭然だが、彼の作品は20世紀の最先端をゆくファッションだ
けでなく、現代の多くの著名人のポ−トレ−ト表現でも写真の特性を見事に生かし、それま
での絵画に見られたファッション、人物像とはまったく異なる世界を見せている。
    
 絵画の歴史的なポ−トレ−トには、14〜5世紀から今時のライティングをはるかに越え
る見事なものがあるが、アベドンの作品にはそれらとはまた別種のフォトジェニックなライ
ティングによる表現や絶妙な画面構成、スナップ・ショットによる厳しいタイミングの作品
が多い。
     
     
 ぼくが彼の自由奔放な作品からショックを受け、厳しい自己反省を迫られたのは、彼がた
だのファッションでなく、その時代の文明批評ともいえるハイ・ファッションを目指したた
めに、ただ奇麗という一語ではとても表現しきれない多くの感情を、彼は深く広く構造的に
語ろうとしたところであった。 彼はそのためにある時は虚構のなかに別世界のリアリティ
を求め、時には夢物語のような遊びもした。そんな彼は写真家を拘束する美学上の絶対的な
法則はないということを知悉し自分の世界を作り出すことこそ人間の宿命なのだと思ってい
たのではなかろうか。    
     
 アベドンの2冊の作品集が見せたものは、高度の個性化と専門化であった。 
 彼が人物写真における創造で見せた姿勢は、他の分野の創造でも完全に共通する。
      
 ぼくは、ファッションの専門家ではないが、そのクリエ−タ−としての生きざまは、共通
する。彼のやる気をおこさせたハ−パ−ス・バザ−のア−トディレクタ−、アレキセイ・プ
ロト・ウイッチの「法則を越えた体感的浸透によるアドバイス」は、画家であり啓蒙家であ
った瑛九の接し方と同一であり、アベドンのハイ・ファッションを通じての文明批評をみて
ぼくは写真特殊表現の積極的な展開に更に熱中することになった。           
                              
 以下、300 点あまりの作品から今回の月例に関係のある6点を選び、簡単なポイント解説
をしておきたい。
  

         

   

      作品 A   1959

             

 

    

     作品 B   1962

    

    作品 C  1967

                  

   

       作品 D   1968

    

       作品 E   1968

               

  

    

        作品 F    1952

              

 作品 A                                 

 ブリジッド・バルド−の端正なアップで、映画ファンに親しまれた有名な作品。   
ハイキ−な画面にヘヤ−の輝くような表現。小さな印刷画面では、わかりにくいが、ダブル
ト−ンに見えるわずかなハ−フ・ト−ンが隠し味のよう。               
 シンプルだが技術的にも高いレベルの作品だ。1950年代には、ア−ビング・ペン同様の研
ぎすまされたフォルムとグラデ−ションの美しいものが多い。      
       

 作品 B 

 まるで記者会見のような画面。当時、こんなファッション写真にはお目にかかったことが
なく、日本のプロ写真家は皆びっくりしたものである。意表で動きのあるモデルのポ−ズが
おもしろい。                                   
 こうしたスナップ・ショットは雑然となり易いが、数名のカメラマンが目障りにならず、
活気ある構成要素として生かされているのは、左側の黒いスペ−スとモデルの左右にある真
っ白い柵が、画面にひとつの秩序を与えているからだ。良い参考になるだろう。
    

 作品 C

 戦後の一般のファッション写真の多くが、型紙の着せ替え人形に過ぎない中途半端なマン
ネリだった頃、それを真っ先に打ち破ったのが、アメリカのアベドンたちであった。   
 彼は衣装のフォルム、質感を重視する写真と現代社会におけるファッシヨンの持つ意味を
高くそびえた彼のアンテナで受け止めた作品とにはっきり分けた表現をするようになった。
 作品B、Cはそうした思いきった試み、徹底した特色あるバラエティである。
   

 作品 D

 新しいファッション的ヌ−ド表現といえるだろう。こんなスマ−トさもあるのか。シャ−
プな神経と大胆不敵な表現にぼくは驚いた。                     
 この作品を見た瞬間、ぼくはもう25年以上も前の自分の作品ヌ−ドA・B(1951)(Pa
rt26)が浮かび、あのヌ−ドはそう悪くはないと思っていたが、ぼくのまったく几帳面
な楷書体では、こんな迫力にはとても勝てないなと思い、また物の見方、構成の在り方を思
い知らされた。 
                                  

 作品 E

 Dと同じ時の撮影であろう。女の頬には直前まで臥っていたと思われる大粒の白い砂がこ
びりついている。若い男との関係はわからないが非常に情感のある作品である。     
 これら2点は多くのプロ写真家に高い評価を得た。この頃からのアベドンはいわゆるファ
ッションをはなれて人間の深奥をタッチする何物かを、何気なく表現しようとするような試
みが見られるようになった。
    

 作品 F

 紹介が最後になったが、この作品は、「ザ・ファッション」のトップ・ペ−ジに掲載され
たこの中では一番古い1952年のチャップリンである。                 
 こんなチャップリンのポ−ト・レ−トは、めったに見られるず、非常にユニ−クでパンチ
のある異色の作品といわれた。1960年代のアベドンの激しい変転の元は、もうこの年代から
あったということであろう。

    
   
    
 (追記)
     
 この項は、非常に大切なことなので、ぼくの話は長々と続いたが、中には見当違いの解釈
をする向きもないとも言えない。心配性のぼくは蛇足かも知れないが、ことのついでに、も
う一言だけつけ加えておくことにする。
    
 ぼくのいうアベドンの作品に見る文明批評的ハイ・ファッションということを、絵解き風
に述べてみよう。
 例えば、作品Aのブリジッド・バルド−は、これまでに見られたただのプロマイドではな
い。フアン心理はお気に入りの女性をアイドル化し、さらに象徴、偶像化へと進む。
 アベドンはファッション写真家として感じたものを、フォトジェニックな抽象化ともいえ
る全く新しいプロマイドとして表現した。それをファンも熱狂的に受け入れたということ。
     
 また、作品Fのチャップリンは、ただの喜劇役者像ではない。それまでのチャップリンの
写真と大幅に異なるところは、演出家としてのチャップリンのフランクで知的な性格をもあ
わせて垣間見せた珍しいポ−トレ−トである。それはアべドンだけの力で引き出せるもので
はなく、俳優チャップリンとの息の合った協力から生まれたものであろう。
                                         
 作品Cは、もう明らかに衣装のデザインをみせるファッションではない。ぼくの頭には中
世のやや太り気味の裸体絵や生活が浮かんだ。
 現代は、モデルも世の女性達も痩身願望時代、ダイエットに狂奔し、足の長さも重要な美
的要素である。この作品は、それらをずばりジャンプさせるような素晴らしいアイディアで
ことさら厳しいデフォルメ的表現をしたものだが、冷徹にしかも美的に見せているので不快
感はない。
 この作品はまた、現代の生活志向の一断面に通じる要素も含んでいる。
   
    
    
     
 アベドンは変身に変身を重ねた。「写真は視覚に訴えるだけではない」ということを示す
これらの歴史的作品をしっかり目を見開いて見てもらいたい。             
      
 そして、リラックスして自分なりの勝手なことをやってもらいたい。         
 「なにごともぜつたいに失敗したくない」という生き方は、緊張人間をつくるだけだ。 
ダメモト感覚でいい。遊び心も必要だ。ぼくが学生や弟子に話した言葉で、何かの本にあっ
た「泥棒と人殺し以外なら何でもしてみようという心意気が、遊び心のエッセンスだ」とい
うのは、かなり効きめがあった。
                          (参考作品)                                         音楽が聞こえるカメラ・アイ                                                           エルンスト・ハースの作品                 

   

              「 ゴイサギ 」  エルンスト・ハース 1970

         

 これは、エルント・ハ−スがケニアで撮った作品。
 アンリ−・ルソ−のアフリカのジャングルを思わせる絵があるが、それとは全く異なる。
「私が育ったウイ−ンでは、街中にいつでも音楽があった。私の写真の中には主題にもまし
て、たくさんの音楽があると確信している」というハ−スのカメラ・アイにかかると、バッ
クと同色に近いゴイサギだが、このジャングルの中でハッキリと浮かび上がってくる。
     
 これは雑然とした被写体を統一し、画面の明暗のコントラスト、テ−マの構成の的確さに
音楽のようなリズムがあるといわれるハ−スの作品の一例として、よく引き合いに出される
名作である。
     
 ぼくは特殊技法の体験から推量して、彼が写真技術のベテランでもあったので、モノクロ
写真でも焼き込み、覆い焼きなどを駆使し、カラ−の原画プリントではダイトランスファ−
を使用しているものが多く、ダイトラの修正、合成に優れた特性を利用して、色彩やト−ン
に相当のコントロ−ルをしていたのではないかとぼくは思っている。
     
 デジタル化の今日、こうしたコントロ−ルは非常に楽になった。正確な記録を除き、創作
では作品の完成度を高めるためのある程度のコントロ−ルは必要だとぼくは思う。
   
   
     
    
 (註)
    塾生各位の個々の写真についての質問などあれば、僕が在宅する確率の多い
    週末から週はじめ4日間位に、電話をしてくれば、僕が居れば即答できる。
    その時の僕の都合で再度、時間帯を変えて電話してもらうこともある。  
    居なければ家人に在宅日を聞いてもらいたい。           
    僕はパソコンで書くより話す方がずっと楽なので、遠慮なく。   
    (在宅の確認は管理人ゆきに聞いても、だいたいの予定がわかるだろう)

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