<玉井瑞夫繧繝彩色塾>

           ☆  ワンポイントレッスン (19) ☆        月例会先生評(2003年3月)           < ドラマの中にカメラを置け >

   今回のテ−マ「家族写真」では、あらためてスナップ・ショットのむつかしさを
  痛感したのではなかろうか。                        
   いつでも簡単に写せるといった気分から、明確な意識も練習もしてこなかったの
  が一般だから、日頃花や風景撮影で身につけたテクニックでは間に合わず、相当に
  手ごわい分野として、てこずっている様子がありありと伝わってくる。
    
 先の講座Part33[スナップ・ショット」で、ぼくの作品についての解説ではわざと
技術的なことには一切触れず、肝心のテ−マ、何をどう写すか感覚的な話もした。    
 また、二人の大先輩木村、土門氏のスナップ・ショットにおける被写体への対決姿勢とそ
の対称的な作品を紹介した。ぼくの記述がざっくばらんで失礼かと錯覚されそうな箇所があ
るのは、日常の顔にみられたお二人の素朴で好ましい人間性にほれこんでいたからである。
今回はそんなお二人の技術面の一端や他の写真家にも共通するテクニックや考え方など思い
つくままに軽く触れておくことにしたい。
     
 編集者1年生のぼくが木村氏に会った初期は、サン写真ニュ−スの一室であったが、彼は
いつもライカを撫でまわし、シャッタ−の落ちるギリギリのストロ−クのフィ−リングを確
かめながら話すことが多かった。ぼくの丹平時代は、風景やオブジェを三脚付きで写してい
たので、こうした仕草は何とも不思議で気になった。ある日、その理由を聞いてあらためて
感心し、納得したものである。                           
 また、土門氏は日頃からカメラならぬ重いレンガを縦て横に持ち替え、さっと顔の位置で
止める、上げ下しする運動をやっており、それを真似て不安定になりがちな縦画でもカメラ
ブレしない要領を会得したと言ったのが三木淳氏であった。

    < 写真家は狩猟民族か >

 こうした修練は、多くのプロ写真家の心構えや基本姿勢に見られた。
 つまり、写真家として一番大切なことは、観察力でありそこから何かを感じ取り怒り反発
し、あるいは共鳴し、その本質とフィ−リングを直感的に判断し、決定的瞬間をとらえるこ
とである。そして、その成否は全神経を集中してものを見ることが中心であるから、カメラ
の技術的な操作への移行は、肉体化されている必要がある。写真家は感覚がスパ−クする瞬
間に、シャッタ−が落ちていなければならず、それが生理的な反応になっていなければ、写
真家とはいえないというのが共通した認識である。
    
 木村氏や土門氏のスナップショットの現場を見ていると、それは映像を撃つといったハン
タ−的、狩猟民族的要素があった。    
 木村氏がいつの間に写真を撮ったのか、相手が気付かないことが多かったというのは、彼
の直感力が決定的瞬間を予感した一瞬にカメラを持ち上げ、同時にシャッタ−が切られ、次
にはもうカメラは下に降ろされていたからである。                  
    
 プロはシャッタ−ストロ−クをシャッタ−が落ちる寸前の止めた状態で持ち上げ、まさに
紙一重の力加減で切るのでブレるということはない。ファインダ−を長々と覗きながら追っ
かけ、シャッタ−を押すというのはアマチュアの行為で、それでは写される側は緊張し、撮
る方も撮られる方も納得できる作品にはなり得ないという。
    
 最近、弟子や友人との話で時折話題になるのは、カメラの視角の肉体化がある。
 ぼくたちがライカを手にした時代は、ズ−ム・レンズがなかった。だからレンズは、35
ミリ、50ミリ、85ミリ、135ミリ、200ミリなどを交換して使うため、カメラを覗
かないでも頭の中に、それぞれのフレ−ムがあった。                 
 それが今は、ズ−ムレンズ付きがほとんどだから、たまたま何となく立ったその位置から
カメラを覗きながら、小さなファインダ−の中で写真を捜すといった傾向がある。これでは
構想の未熟、構成の脆弱な写真が多くなるのは当然で、これは大きな反省課題である。 
    
    
 ぼくたち世代では肉眼によるフレ−ムを持っていたので、現実の風景、情景を裸眼でしっ
かり見つめながら、非常にスピ−ディに前後左右に体を移動して密度ある構成を、時には思
い掛けない組み立てを試みた。またその画像は同時に最終的には四つ切、半切、全紙のプリ
ントなど使用目的に応じた写真が頭脳にイメ−ジされた。つまり、カメラ任せの視角と肉体
化された視角との大きな違いがある。
     
 これをある場所でのスナップショットに当てはめてみると、まず、そのテ−マにふさわし
い場所は何処にあるか、360度、高所から低所まで、それを嗅ぎ分けるのは、その人の直
感的、観察力がものをいうだろう。 その後はカメラを覗かないでもどの位置に移動し、ど
んなフレ−ムで決定的チャンスを捉えるか。被写体を何気なく観察するまなざしは穏やかで
も、全神経は被写体とその環境、バックグラウンドの動きまで全体に集中されるだろう。 
    
 目測での距離測定の正確さも相手に気づかれずに写す時など大切だ。仮に、その最適なフ
レ−ムが35ミリ、目測距離3.5メ−トルとすれば、その目盛りにセットしておき、本能
的な決定的チャンスにはカメラが持ち上げられ、その一瞬に肉体化されたシャッタ−はほと
んど音もなく落ちているだろう。
    
   
 現在の一眼レフカメラはオ−トにすると、一段目を押すとピントが動き、自由がきかない
ので、ぼくはマニュアルで目測スナップすることも多い。舞台撮影では、ペンタプリズム付
きのカメラやハッセルブラッドはミラ−の音が大きいので、レンジファインダ−付きのライ
カを使用した。
     
 経済高率至上主義がデジタル化に拍車をかけるが、いま現在のデジタルカメラには、シャ
ッタ−ボタンを押すと同時にシャッタ−が落ちてくれない機種もあり、今のところはまだ上
記のようなタイミングに賭けている写真家の方が多いようだ。  

        

< 月例 3月講評 >

   
 今月の月例は、低調であった。「家族」というテ−マを5ケ月前に発表し、参考としてザ
・ファミリ−・オブ・マンという人間家族の大写真集を紹介し、スナップ・ショットによる
傑作を解説した。また、先の講座ではスナップ・ショットのあれこれを取り上げたが、それ
らに反応し、推敲した形跡はほとんど見られなかった。花や風景写真に比べて、格差が大き
すぎるのは、多忙といった条件以上に、テ−マ設定の重要さへの認識不足、更にスナップ・
ショット技法の不慣れがあろう。
    
 このワンポイント・レッスンも講座と共に記録に残すので、未消化な写真を課題作として
掲載するにしのびず、「家族」というテ−マは、改めて新規に1年先のテ−マとしたいとぼ
くは考えた。    
     
 そんなことから今回は、月例のテ−マと見ず通常の写真として、問題点のある数点を取り
上げるにとどめ、ぼくが資料としてストックしている中から選んだ参考作品とともに総合的
な思考と技術を必要とするスナップ・ショットのキ−ポイントを解説する。掲載作品が多く
なるので、解説は非常に簡明にするが、作品をしっかり見つめれば解るはずである。
    
 家族写真は、その一家の大切な歴史である。もちろん、その間にも研究作として月例に出
すのはさしつかえない。そのうち、修練の結果を大コンテストに出品し、賞とともに家族に
も喜ばれる、そんな作品を期待したい。

   

「家族の光子画 4」 山田明広
   
 影だけでは弱い。石畳の質感のあるのも
ののほうが、フォトジェニックで効果的。
 ここでキ−ポイントとなるひとつの方法
は、影のない日のあたる部分に我が家のペ
ット、犬猫や鳥などのリアルな副材があれ
ば、心理的な増幅があって効果的であろう。
 あとは意外性のあるシャッタ−チャンス
に集中することだろう。        
                   
 再度トライした結果を見たいものだ。 
 ぼくは、ポルトガルのリスボンをはじめ
ヨ−ロッパ各地で見事な道路模様と人影に
取り組んだ日を想いだした。

    

    

「歴史」 西浦正洋
    
  このままでは、視覚的な妙味に欠ける。
 こうした構成は、中途半端ではおもしろ
くない。
 ぼくの勝手な空想では、写真による歴史
を感じさせる感動の表現は難しいが、リリ
シズムの程度の例なら、うずたかく積み上
げられた写真の山が崩れた端っこに、目的
とする写真を見せるとか、あるいは徹底的
にデザインされた絶妙な構成による表現と
するか、一工夫したいところである。
     
 こんなことばかりをやっているデザイナ
−に、あわよくば一泡吹かせるような作品
はどうだろう。いずれにしても挑戦的な姿
勢で臨みたいところ。

「いってきます」 大住恭仁子
   
  あっさり明快な構成、シャッタ−チャン
スも良く、好感の持てる作品である。
    
  ただ、このフレ−ムには問題がある。少
女の足首をこんなところでカットするのは
見る者には、生理的な抵抗感を与える。
 その辺の要領は七分身と全身のカットを
比較して見ればよく解るだろう。  
 多人数のスナップでは、こんなことにな
りやすいが、少なくともメインの人物はこ
うした切り方をしてはならない。   
                  
 バッサリと思いっきりのいいフレ−ミン
グするのがこの作者の特色だが、この写真
に奥行きを感じさせることを考えてみるの
も、研究課題のひとつである。 

 
  

「はる」 岡野ゆき
    
 大胆不敵な表現である。
 凸レンズや凹レンズ、ゆがんだ鏡による
習作は、たくさん見てきた。ただ、野放図
もよいが、もう少し娘の身にもなってやっ
てはどうだろう。フォルムの良さ、もうち
ょっと可愛い表現をしてやらないと、「は
る」が大きくなったら恨まれるよ。
                   
 画面構成はおおむね良いが、バックに一
考を要する。同様に、ぼくの姉「祖母」は
性格も察せられる写真になっており悪くな
いが、もう一歩生活環境を窺わせるバック
選定があればと思う。 

                         < スナップ・ショットのキーポイント >

 著名な写真家の殆どが言った言葉に、「ドラマの中にカメラを置け」というのがある。
 そうして、戦争の撮影現場では、ベトナムでロバ−ト・キャパやウエルナ−・ビショッフ
が地雷をふんで逝った。報道写真はことさら厳しい世界である。
   
 プロとアマチュアの大きな差は、その表現にドラマがあるかないか、画面の単純化、テ−
マの明確化にある。
 スナップショットを行う場所の多くは、目的にそわぬ雑然とした場所が多い。
 それを如何に、不要な或は主題を損なう狭雑物を入れず、巧みなカメラポジションや光の
読み方で、主題を浮き上がらせるかが腕の見せ所である。ユ−ジン・スミスはわずか1イン
チのカメラ位置で成否がきまるといった。                     
    
 わずかなカメラ位置で狭雑物を目立たなくすることができることがある。アマチュアは、
光りがどちらから来ているかさえ考えず、数メ−トルもカメラ位置が狂っていても気がつか
ず、無駄なシャッタ−を切り続けている例を見かけることもある。これらはレンズの長短の
選択以前の問題である。
   
 プロは、雑然として写真にならないところでは、シャッタ−は切らない。もし、写しても
使えない写真は引き伸ばさない。ぼくはロバ−ト・キャパが日本にやって来た時のコンタク
トを見たことがあるが、そのことが良く解った。
    
 以下に、参考例の一部を挙げるので、その辺のポイントに注目、研究してもらいたい。

       

俺に従え ディック・スリンソン 1961

卵でこんなことができるのよ  エメット・ゴーイン

 これは、岡野くんの凸レンズの写真を見て、手持ち資料の中から選び出した。
 これらは、アイディアが秀作を生むことの実証である。どこかで見たような類似品ばかり
では見る方も退屈する。卵と子供の作品は、バックへの配慮が表情とともに生きている。
   
 この少女の表情は、もう自慢顔を通り越し、うっとりとした顔つきとなっている。深いド
ラマ性が感じられるシャッターチャンスである。優れた作品の背景は、それがある場所説明
であるだけでなくそのドラマを支える空間としてのはたらきもする。この場合は、抽象化さ
れた心理にも訴える空間といえよう。   
    
 子供たちがリ−ダ−に右へならえしている光景はよく目にするが、このバッタから見たよ
うな視覚は、作者が遠近感に変化を持たせようと心がけていたことから発見したという。
 自分の意思どおりに動く遊び仲間を従えた幼いリ−ダ−の個人ポ−トレ−トでもある。

                    

赤ん坊と医師  作者不詳        

 この赤ちゃんは、背中を持ち上げているようだが、おとなしくしている。
 作者は、静かな赤ちゃんと忙しそうな医師との対照を強調する意味から、フラッシュを使
わず、1/15秒の露出で医師の手をブレた表現としたという。学ぶべき配慮である。
  <こうした微妙な決定的瞬間、つまりリアリティの結晶にはドラマが生まれる。>
    
 家庭内だけでなく、こうしたチャンスにもカメラを生かすことで、新しい見方も発見する
ものである。

                   

ジョン・F・ケネディ親子         エドワード・クラーク      

 この写真のコメントには、「この赤ちゃんは、さすがにケネディ一家、まだ生後4ケ月と
いうのに、ちゃんとカメラを意識している。父親に挨拶しながら写真向きののぞき見をして
いる」と、いったジョ−クがついていたが、このチャンスの捉え方、カメラの高さで口元を
隠し、目つきを強調したカメラ・ポジションは、さすがプロ写真家である。
    
  この単純化されたフレームには、ほのぼのとした空間がある。

                       

静かな朝            ウィン・ミラー  1957

   姉妹     ダビット・ハミルトン 1971

 ハミルトンの作品は、この姉妹をテ−マとした写真集のなかの1点である。幻想的ともい
えるこの表現は、大胆に逆光を生かし、統一した見事な構成による。
 ウイン・ミラ−の作品も同様で、シンプルな黒バックで単純化し、サイドライトの巧みな
効果で、ヘヤ−をくしけずる平凡な情景をリズミカルな表現にまで高めている。

               

バートランド・ラッセル
ラリー・バローズ

マハトーマ・ガンジー  マーガレット・バークホワイト 1946

  清貧と偉大な特性が、マハト−マ・ガンジ−の本質的な特徴であった。
 ガンジ−は、インドがイギリスから独立する長い戦いを指導しながら、毎日午後の1時間
は、糸車で糸を紡いだという。
 成功した革命のリ−ダ−は、豪奢な生活に変貌する例が多いが、ガンジ−にはそんなとこ
ろは微塵もなかった。相変わらず使い慣れた糸車のかたわらで、書を読むガンジ−は、その
生涯を示すにふさわしい象徴的な光景であろう。
 ライフ創刊号の表紙、ダムの写真を撮った女性ナンバ−ワンの写真家、バ−ク・ホワイト
が撮ったガンジ−のこの作品は、歴史的な写真としていまだに輝いている。
    
 クロ−ズ・アップの写真、バ−トランド・ラッセルは、イギリスの哲学者で、数学者でも
あったが、政治問題にもうるさかったといわれる人物であった。ほとんどあらゆる分野にわ
たるラッセル格言集など門外漢にもおもしろい。
    
 ぼくがこの2人の作品をとり挙げたのは、ある人物像を表現するときの2つの方向を示す
代表例のようにおもえるからだ。
    
 ガンジ−の糸車は、人によっては植木であったり、釣りざお、陶器、絵筆など趣味や仕事
の道具かも知れない。まったく何もなしでの撮影よりもその人の好み、得意な、あるいは手
慣れたものに接しながらの情景ともいえる撮影のほうが、その人のリアリティある日常の表
現がしやすいといったことである。先の講座での梅原龍三郎もその例である。
    
 しかし、クロ−ズ・アップになると、大道具小道具がないだけに特色を表現するのは、非
常に難しくなる。ラッセルの写真でのメガネやパイプの扱いは、それが本人の日常そのもの
なのか撮影者の演出なのかは解らないが、この相当に特異な人物にはそれらしい表現と思え
る。
 いずれにしても過去の傑作といわれるクローズアップの人物像は、まず一見して動きがあ
り、その時の心理やその人の内的な性格を浮き彫りにしている点で共通している。
   
 つまり、家族写真における両親をはじめ兄弟姉妹の撮影にも、こうした作品がひとつのヒ
ントになればということである。

   

 (註)
    塾生各位の個々の写真についての質問などあれば、僕が在宅する確率の多い
    週末から週はじめ4日間位に、電話をしてくれば、僕が居れば即答できる。
    その時の僕の都合で再度、時間帯を変えて電話してもらうこともある。  
    居なければ家人に在宅日を聞いてもらいたい。           
    僕はパソコンで書くより話す方がずっと楽なので、遠慮なく。   
    (在宅の確認は管理人ゆきに聞いても、だいたいの予定がわかるだろう)

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