<玉井瑞夫繧繝彩色塾>

           ☆  ワンポイントレッスン (17) ☆          月例会先生評(2002年11月)           < 小さな自分から脱皮しよう >

 ぼくは20代の後半から40年余りのプロとしての写真生活で、多くのアシスタントに手
伝ってもらったが、その数は約50名ほどになる。その中で第一線の写真家として生き残っ
たのは、これまでのところ1/3の15人であった。
    
 スタジオに受け入れた50名は、希望者をすべて受け入れたわけではなく、その性格、能
力を見て選んで決めたので、その3倍以上150名程の申込みがあった中から後に一人前の
写真家として通用するまでに成長したのは、希望者の1/10ということになる。
     
 アシスタントの呼び名も、時代の流れ、ぼくの仕事の内容、ぼくの能力の変化、彼らの能
力、姿勢によって、助手、弟子と変わった。アシスタント(助手)は、一時的なお手伝い。
やる気がありぼくの片腕になれる者が弟子。弟子には師匠のすべてを与え、弟子が師匠と同
レベルになれば免許皆伝、彼ら自身で道を開き、師匠を越えて行くのが責務である。  
    
 こうなると彼らはぼくのもとを離れ、世界へ出て行かせたが、その後も折に触れての討論
は未だに続き、ぼくは彼らを相手に、「俺の頭は40代、君たちよりまだ若い。」などとう
そぶくので、弟子にとっては生涯の人師ということになっている。が、ぼくにとっても世界
を股にかけて歩く現役の彼らから教えられることも多く、愉快な時が過ごせる。
     
 余談になるが、弟子、師匠という言い方はいかにも古くさく思われるかもしれないが、創
造の世界では、最も合理的な伝承として、マンツ−マンの体感的指導はこれしかない。  
 ぼくは若い頃、前衛画家瑛九その他の人師を得たが、現在の日本でも特異な倉本聡の富良
野塾、仲代達也の無名塾も同様であり、アメリカでもハ−パ−ス・バザ−のア−ト・ディレ
クタ−、アレクセイ・ブロ−ド・ウィッチがこうしたシステムでリチャ−ド・アベドンを世
界的に著名なファッション写真家に育て上げた話は有名である。(写真繧繝彩色塾 参照)
                    
      
 ところで、免許皆伝、一人前の写真家になった者たちは、他の者とどこが何が違うのか。
そんなポイントを具体的な例で挙げてみよう。
 ぼくのところにやって来た者は種々雑多だが、そんな中には世間ではエリ−トといわれる
芸大、東大出身という者もいた。彼らは確かに偏差値は高いように見えたが、これは創作に
は関係なかった。                                 
 ぼくの指導(アドバイス)は、本人が気づかないブレ−キになっているところを発見し、
それを取り除くために、次へのヒントを一言いうだけであった。彼らは理論の理解は早く、
丁重な礼をいうが、ぼくのヒントをただ頭の片隅に小さなコブのようにつけ加えるだけで、
何の実験もせず分かったつもりで終わることが多かった。               
    
 しかし、そんな付録のような小さなコブ(理屈)ではすぐ忘れてしまう。とにかく実践し
なければ何も生まれず、身につかず何の役にも立たない。モンドリアンその他多くの造形論
なども伝えたが、丸暗記の頭だけの理解では借り着同様で、<いざ鎌倉−−>には、とても
間に合わないのが道理である。結局、彼らは一人前の写真家にはなれなかった。     
     
     
 彼らが繰り返した言動をぼく流の分析から率直にいえば、アカデミックな大学教育を受け
ただけの未熟でちっぽけな自分の感性を個性と錯覚し、それを固執し、こだわり続けて未熟
な自分を捨て切れず、より大きく強靭な自分に変身できなかったのが原因である。    
      
 写真に限らず創作は,すべて心身をつかった厳しい重労働から生まれる。       
 ぼくの弟子で写真家として生き残った者たちは、ぼくのアドバイスを即実行しさらに試行
錯誤して身につけていった者だけであった。もちろん、ぼくからのアドバイスは写真に関す
ることだけでなく、絵画や彫刻、音楽に限らず、話によっては古今東西の文化、森羅万象、
どこへでも飛び火した。時には辟易するような質問もあり、僕も勉強せざるを得なかった。
    
 やがて彼ら自身でも自らの問題点を発見し、それにトライするようになるとぼくは相談役
にまわることもよくあった。成長の早い者は、エビ、カニが脱皮しながら、より大きな殻を
もってゆく有様をみるようで、その変身ぶりも楽しみであった。
 こうした考えは、プロもアマチュアも変わりなく、その辺の狭い世界のベスト・ワンでは
なく、それぞれが個性を発揮した広い世界に通用するオンリ−・ワンを目指すべきだとぼく
は思う。

        

< 月例 11月講評 >

   
 今月の例会を見終わって、総体としていささか物足りなく思うと同時に、瑛九が展覧会
評で、「作家が如何に現実を見、如何に現実に懐疑し、夢み、喜び、悩んだかを、その作
品からじかに感じることができない。」とよく言っていたことを思い出した。これは絵に
も写真にも共通する原点である。                         
 当塾は写真の研究会ではあるが、ぼくはもうそろそろ習作のための習作といったレベル
をクリア−して、切れの良いハッとするような作品が現れないかという期待を秘かにもっ
ているからであろう。                              
     
 表現技術で一番目についたのは、スナップ・ショットの入口あたりでの戸惑いと、ズ−
ム・レンズの安易な使い方であった。これらについては、各人の写真を作例として具体的
な解説をしておく。 その他は、各人1点づつについて、作品の質にこだわらず気になる
ポイントとを述べることにしよう。

        

「雨上がり」 原画

「雨上がり」 修正分

    

「雨上がり」 西浦正洋
    
 <雨上がり>の風景は、フォトジェニックな魅力がある。エルンスト・ハ−スのニュ−メ
キシコ、アルバカ−キでの著名な作品が記憶によみがえってきた。
 それは夕刻の大雨による光り輝く水たまりを主題として広くとりいれた力強い画面であっ
たが、この作品の場合は、水たまりのボリュウムが少なく、あっさりとしてやや弱いが、3
人乗りの自転車がおもしろく、シャッタ−・チャンスも良い。            
 ただこの構成では弱いので、参考までに左と上部をカットして密度を高めたのが修正分で
ある。左前には、間延びした空間があり、これを少しつめると緊張感のある空間になり、画
面がひきしまる。

            

「枯れ葉2」 原画

「枯れ葉2」 修正分

    

「枯れ葉2」 岡野ゆき
    
 これは、写真によるリトグラフの小品といった印象である。            
 ただ1枚の枯れ葉と影のグラデ−ションだけであるが、そこにはある種枯れ葉にまつわる
情景が写し出されている。初めてのPhotoShopの作品としては上出来といえよう。
    
 PhotoShopのソラリゼ−ション表現は、アナログのカラ−ソラリゼ−ションとは
まったく違うので、技術的なことはなんとも言えないが、撮影時のバックの色が淡色で、枯
れ葉色をかなり忠実に残しながらのグラデ−ションは渋い色変化のバランスになり味わいが
ある。欲を言えば、枯れの色と質感は、ギリギリ、シャ−プに表現したいところである。
    
 ぼくの知るアナログでの常識からいえばPhotoShopでは、即座に暖色から冷色ま
での変化が見られるのは、大変な驚きである。これに加えるにエキセントリックな色光など
想像するとさらに興味深々で、そんな作品も見たいものだ。
        
 この作品も最後のつめが甘い。こうしたシンプルな作品の場合ことさら空間処理が大切で
左と下を少しカットしたのが修正分である。ほんのわずかだが、このトリミングとややコン
トラストを上げたことで原画のお気楽ムードから、密度ある切れのよい画面になっている。

           

「閉じられた窓」 上田寛
   
  この窓は、作者の想いがかなり表現され  
ているのではなかろうか。
  ぼくは窓や扉が好きで、ヨ−ロッパ、ア  
メリカなど行く先々で、特にテ−マにした
わけでもないのに、知らず知らずに多くの
窓や扉を撮っており、1966年の美術手
帳の1、3月号に、<かたちの風物詩>と
いうタイトルで、それぞれ数ペ−ジにわた
って特集された。
 この窓を見かけたら、おそらくぼくも牽
かれろように撮っていたであろう。   
 この作品は、この窓の魅力が過不足なく
表現された佳作といえよう。

 

 
「Motion〜動〜」 阿部政裕
   
  モヤの立ちこめる川のながれにビ−玉が
見え隠れするような風景、画面の構成は一
応これでよい。ビ−玉の動きはモンタ−ジ
ュでかなりおもしろい。
    
  後は、この画面にどうしてボリュ−ムと
パンチを与えるかで、それを課題としたい
ような作品である。
 それが出来れば、眠りから覚めて生き返
ったような作品になるだろう。ヒントは異
常な動き、逆行など。次回は阿部君にこの
テ−マでの解答をカラ−とモノクロで見せ
てもらいたいものだ。

  

「記念撮影」 嶋尾繁則
   
 話を分かりやすくするために、芝居の舞
台をイメ−ジしてもらいたい。この作品は
遠くから舞台を見ている観客の位置と立場
からのショットになっている。
    
 カメラ位置と使用レンズの長短による被
写体の大小のバランスに妙味が乏しく、情
景の説明としてはよくわかるが、この見方
では見取図的で迫真力に欠ける。その舞台
へ一歩踏み込んで写す見方が大切だ。  
 ズ−ムに頼らず、肉眼でリアリティが強
調できる位置に体を持ってゆくこと。 
                 
 以下に、カルチエ・ブレッソンの構成を
見せるので、比較検討してもらいたい。

         

「薄れゆく記憶」 森下弘
   
  ぼくは、作品はタイトル、解説などにと
らわれず、各人の感じるままに鑑賞すべき
だと講座で何回も述べてきた。
  僕自身も絵画、写真を見る時、タイトル
や解説を読まないで鑑賞する習慣がつき、
博物館での古代の遺物を見る時も同様だが
さすがに遺物は、歴史に関係が深いので、
その地方、年代の文化史を再度調べること
がある。
     
 ところで、この作品をみて、後で「薄れ
ゆく記憶」というタイトルを見て、森下く
んが何を感じ、何を表現したかったのか、
その辺を質問したくなった。
 ただのゴミ公害を訴えるものではあるま
い。絵画ではこうした廃棄物を絵にするこ
とは少ない。フォトジェニックともいわれ
る被写体だけに、厳しい姿勢で取り組まな
ければ意図不明、単なる感傷ともみられ、
この問題は無視して通過できないところで
あろう。

     

「若戸大橋」 山田明広
    
  この作品は、かなり大胆なアングルでの
トライであるが、オブジェと見るか橋とみ
るかが判然としない結果が、後一歩という
ことになっている。
     
  ぼくは学生時代、橋梁美学という講義を
受けたせいか、いまだに橋を見るのは好き
だし写真も撮る。           
 そんな体験から橋梁美の表現では、その
構造物が最小限度でも橋ということがわか
るフレ−ムでの構成が欠かせない。   
 またオブジェとしての表現なら、一種の
不可思議と思える象徴・抽象まで高めなけ
れば成立しない。         
 再度トライしてみてはどうだろう。

      

「ダッシュ」 大住恭仁子
   
  ある種の強さはあるが、画面構成が散漫
になっているのが弱点になつている。
  こうしたシ−ンは、運動会などで誰でも
が撮るが、めったに良い作品に出会ったこ
とがない。動きが激しいのでシャッタ−を
切るのが精一杯なのだ。
     
 プロでも難しいというテ−マだけに、ま
ずオリンピック、その他スポーツ写真での
成功例など参考にみて何処がどう違うのか
よく見ることから始めるとよい。ぼくの友
人早崎君が撮った東京オリンピックのポス
タ−など見たことがあるだろうか。
 ついでながら、プリントのハイライトが
飛んでいる。地面の明るさと靴の白さは区
別できるト−ンで表現すること。

      

「赤外線のための習作」 藤本茂樹
      
 赤外効果のかなりよい習作である。
  赤外写真は、コントラストがつよく、ハ
イライトが飛び、シャド−がつぶれがちに
なるため、下手をすると雑音、騒音にあふ
れた画面になりやすいので、その辺に注意
して構成すれば、渋くて落ち着いた表現に
もなるだろう。
 手前右下の白い砂のような部分は、その
上のラインでカットしたほうがよい。

       

「解体」 横山健
   
  もうかなり以前のことになるが、建設現  
場より解体現場の方が、おもしろいという
写真家がいて、副都心新宿界隈の現場を徹
底的に表現した展覧会は、解体と新設の対
比が見られるシ−ンなどもあり、昼夜を分
かたぬ都会という生き物の断面、裏面をみ
るようで強いインパクトがあった。
                   
 この作品は、散水しながらの解体現場と
思われるが、人物と機械のもっと明確な表
現とダイナミックなタイミングが欲しいと
ころである。
 姿勢として、心理的な視野を広げると更
に充実してくるであろう。

       

「日本猫」 成瀬幸恵
   
  猫好きな人は、猫さえみればご機嫌で、
通常の人には考えられないほどだといわれ
る。
  この場所は、神社仏閣に縁のある場所ら
しく柱も格子も朱色で統一され、日本猫に
はピッタリというバックなのだろうか。
     
 門外漢のぼくなどからみると、肝心の猫
の表情が平凡で、ことさらの興味が薄い。
第三者にもおもしろく変わった表情、動作
の瞬間がみられればと思う。
 画面、上下左右とももっときりつめた方
が画面は締まり、猫も強調されるので、掲
載分は少しトリミングしてある。

                        スナップ・ショットのロングとアップ           

    「 マドリッド 」  カルチェ・ブレッソン スペイン 1933

     

  「 ボスティアーノ司祭 」  エルンスト・ハース イタリア 1953          

 いずれも見事な構成の秀作として名高い作品である。                
 傑作の条件は、似たような作品のなかで、雑音を省き非常にシンプルでいて、必要条件は
しっかりと備えた見事な構成がなされ、一見してハッとするようなユニ−クさがある。しゃ
れた、スマートな、或いはダイナミックな、時に神秘的なそんな表現がみられる。
    
 ブレッソンの「マドリッド」は、点々と窓のある高い壁のような建物をバックに、広角レ
ンズで人物に近寄り、その大小で平板になりやすい画面に奥行きを感じさせ、子供たちの歓
声が反響しているような空間がある。 
      
 ハ−スの「ボスティア−ノ司祭」は、アップで動きのある人物もシルエットになっている
が、光りと影、模様が浮き彫りになった壁の一部など、ローキーのすばらしいバランス、シ
ンプルで奥深く、象徴的な画面が構成されている。左側のシャドーと人物の黒の濃度差も大
切である。
     
 ぼくは、すばらしい作品を見ると、敢えて自分にはとても不可能という考えは持たず、そ
れを超える作品には、どんな条件が必要かということしか考えず、それにチャレンジする方
向しか考えないようにした。これは、25歳で丹平写真倶楽部に入会した時、先輩から受け
た大切な教訓であった。
   
   
     
    
 (註)
    塾生各位の個々の写真についての質問などあれば、僕が在宅する確率の多い
    週末から週はじめ4日間位に、電話をしてくれば、僕が居れば即答できる。
    その時の僕の都合で再度、時間帯を変えて電話してもらうこともある。  
    居なければ家人に在宅日を聞いてもらいたい。           
    僕はパソコンで書くより話す方がずっと楽なので、遠慮なく。   
    (在宅の確認は管理人ゆきに聞いても、だいたいの予定がわかるだろう)

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