☆ ワンポイントレッスン (15) ☆ 月例会先生評(2002年9月) * メカニズム表現の発展と可能性 * < なぜ原点なのか >
このところ、写真に関連する<原点>といった話が多いが、今回もそんな話である。 ぼくは、1920年代以降の画家に方向転換をさせた写真の3大特性、「瞬間の固定」、 「精密描写」、「グラデ−ションの表現」の威力を十二分に発揮した表現をと耳にタコがで きるほど言い続けているが、それは写真というメカニズムによる表現の素晴らしさ、有難さ を再認識し、それに応えられるだけの徹底した使い方をしてもらいたいと願うからである。 ぼくは、生来の好奇心から「写真の特殊表現」という分野に入ったが、新しい分野を目指 すほど写真の原点を知り、情報量の多い源流を分析しなければ、先へ進めないことがわかっ た。ひいてはそのことが日頃の創作、一般的な制作にもおおいに役立つこともわかった。 純粋な意味での現実、生活体験の中にある現実と写真的現実(写真の中における現実)と の間には大きな隔絶がある。メカニズムと技術の進展は、人間の視覚をまったく新しく改変 させ、作家はメカニズムを征服して新しい視覚の創造をする。この二つの闘争は機械芸術の 本質として考えねばならぬことである。 例えば、ぼく達は写真の大きな武器のひとつとしていとも簡単に、『瞬間の固定』という が、露出時間を瞬間といえるまでに短縮した問題にしても、それは先人達の大変な研究、努 力のお陰、賜物だということを忘れがちである。 1822年フランスのニェプスがアスファルトの光に対する感光現象をもとにして、初め ての写真といわれたヘリオグラフィ−では、太陽光のもとで8時間の露光を必要とした。 それを彼と共同研究を行ったダゲ−ルのダゲレオ・タイプでは20分まで短縮したことか ら、ダゲ−ルは写真発明者の栄誉を担うことになった。 写真の進歩は更に時間短縮に向かって、タルボットのカロタイプでは2〜3分に、さらに 1851年スコットア−チャ−によつて完成されたコロジオン湿板法によって10〜15秒 に短縮することができたが、乳剤が湿っている間に写さねばならぬために、現場に移動暗室 を持ち歩いた。そんな条件で南北戦争に従軍して記録したマッシュウ、ブラディの現場写真 もある。また秒単位の短縮は、ようやく写真に個性的な表現が芽生えて、ナダ−ル、カメロ ンなどの優れた肖像写真家が生まれた。 その次には、1871年英国人マドックスによって創案された臭化銀ゼラチン乳剤による 携帯に便利な乾板は、感光力を15分の1秒に短縮した。さらに1884年アメリカのジョ −ジ・イ−ストマンによって発明されたフィルムは、カメラ機構を変革して小型カメラが生 まれる動機となった。 小型カメラは形態上の問題だけでなく、大口径レンズの使用が可能になり、感光材料の高 感度化とともに拡大され、第1次世界大戦以後、新即物主義の影響を受けた写真表現は、先 鋭な画像とグラデ−ションをもって質感を出し、更にアングルの自由、視覚に向けて表現の 可能性を拡げ、リアリティを追求する今日への段階に進んだ。こうした流れに乗ったライカ 使いの名手、カルチェ・ブレッソンの「決定的瞬間」もその一例であろう。 この瞬間把握の征服は、カメラのメカニズムの大きな進歩であったが、それが500分の 1から1000分の1秒というシャッタ−が小型カメラに組み入れられるに至って、ひとつ の問題が生じてきた。 人間の肉眼が認識でき得る動きの時間的把握は、約16分の1秒といわれている。 そこで高速度シャッタ−によって捉えられた画像はかえって静止の形となり、それの速度 が増加するに従って凝固の静止になって行った。つまり、カメラのメカニズムは肉眼の視覚 を越えて科学の目として発達してきたのである。 そこで動きを動感として表現するためには、かえって緩速度による動きの効果を求めるこ とも試みられ、高速シャッタ−による静止は測定、分析等の科学的手段にも応用されるよう になった。 科学的な測定に用いられた電気発光装置がカメラと結ばれて更に超高速度の撮影が可能に なったのは比較的最近のことである。クセノンを封入し放電管に高圧電流を瞬間的に流すこ とで強力な発光をするストロボ発光装置は、コンデンサ−の容量によって一千分の一から百 万分の一秒以上の瞬間撮影が自由に選択されるようになった。これら新しい時間性の征服は 新らたなる視覚美をつくる道具として表現の領域を拡大した。 普通は五万分の一秒位までのものが多いが、この連続された高速度瞬間撮影(マルチ・ス トロボ)によって試みられたジョン・ミリ−の作品などは、時間性を征服して、これを抽象 化し、そこには知的なリズムの新しい視覚を創っている。 こうした問題は、全く色盲であった臭化銀乳剤からスタ−トした感光材料の発展のプロセ スにある整色、全整色性の改良。不可視の世界である赤外線撮影、不透明な固体を貫通して 記録するX線撮影、カラ−写真の発達途上の諸問題など、それぞれの過程に見られた歴史的 な出来事を一応知っておくことは、写真表現の発展と可能性を考えるときのベ−スになる。 面白いことに初期のカラ−フィルムの感度不足は、エルンスト・ハ−スのわざと動体をブ レさせた独自の名作も生んだ。(Part16参照) グラデ−ションの表現では、日本画で絹布に墨一色で描くところを見たことがあるが、思 うがままの濃淡のグラデ−ションを描く要領を会得するだけに何年もかかるという。 写真ならちょっとライティングに気をつけるだけで、微妙なグラデ−ションの表現も可能 だし、瞬間の固定もタイミングに集中してシャッタ−・ボタンを押すだけでこと足りる。 要するに、ぼくが言いたいことは、これ程までに良くできたカメラのメカニズムや感材の 生かした使い方を怠るなら、先人達やカメラに申し訳ないのではということである。 ぼくのように1950年代の高価でもすべては手動式のライカを使ってきた者には、バカ チョン・カメラといわれるカメラは、あの安さでは出来過ぎた魔法のカメラと思える。 わずかこの20年ほどの間に、カメラは文明の利器になりすぎ、撮る方の頭もオ−トマチ ックになりすぎてフィ−リングだけの写真、軽い写真の流行で、写真を教える教師もこれで は世界に通用しないと嘆くばかり、正統派は、カメラの機能を最大限に生かしながら「前衛 的」「進歩的」の意に限りなく近いモダニズムを根底に世界は進展している。 |
諸般の事情で、月例から隔月例に変わって2回目の例会である。 隔月例になると、気分的、時間的な余裕から文化史や写真関連の読書、作品の推敲などか ら作品の質的向上が期待できるのではと言った写真家があったが、それはかなり追々のこと であろうとぼくは思っている。 今月は、「輝き」という課題もあったが、課題の多い写真学校の学生たちに比べて、課題 慣れしていないこともあってか反応は鈍く、「輝き」というタイトルにユニ−クな反応を示 した作品は見当たらなかった。これも写真誌や公募展などに応募した経験がないからで、こ うした対応もまた徐々に分かってくるであろう。 講評は例によって、問題の共通事項からワンポイント・レッスンにふさわしいものを例題 として話を進める。(なお、これまでにもよく見られた類似の問題については、作品の掲載 はせず、解説にとどめる。) |
「街角の空」 原画 |
「街角の空」 修正分 |
これは街角の物言わぬ被写体それぞれが、雄弁に話しかけている風景である。 街角の標識、街灯、タワ−、必要最小限度のビル、動感のある雲。オレンジと偏光フィル タ−でコントロ−ルされた遠近2つの雲の表情にも変化がある。作品は、これらの要素がし ゅうれんしたコンポジションによる構成である。 このままでもおおむね良いのだが、こうしたシ−ンにはよく遭遇するので研究例としてぼ くならどうするかを考えてみたのが修正分である。(本来ならば、わずかなカメラ位置の変 化と雲のタイミングに集中するところだが、厳しいトリミングをし、一部手を加えてある) 原画の空間がややせせこましいので、空間に必要なゆとりと拡がりを持たせるため、下部 三角形の右下にあるハイライト部と左端ビル上部の雲を焼き込んで整理した。タワ−は少し 明るくしてある。上部から下りてくる雲は、強過ぎて視点が上に偏り、スケ−ルが狭くなる ので一部をカットした。 この作品は女性とは思えない大胆さで、かなりダイナミックな構成である。全紙に伸ばす ともっと迫力が出る密度があり、佳作といえよう。作者の他の作品に比べて、格段の差があ るが、初心者の上達過程やスランプ突破時にも見られる現象で、別に驚くことはない。当分 はまだ右往左往するだろうが、これを機に自信を持って精進してもらいたい。 |
「折り鶴」 原画 |
「折り鶴」 修正分 |
「輝き」という課題から透明なセロファンの折鶴に光りをというアイディアは、フォトジェ ニックな試みとして評価できる。「さぎ草」も同じテ−マ作品と考えられるが、作品は一応 まずまずの出来だが、訴求力は後一歩といったところである。 内容の追究に今一歩もあるが、ぼくが技術的なことで気付き気になったことに、平板なバ ック処理と唯一の副材である光の表現のあいまいさがある。主題を支えるバックに利かせる 光は、抽象的で一番目立つものだが、その表現にこれといった方程式もなく、フォルム、ポ ジションともに千変万化、かなり難しいが、まずイメ−ジを持つ必要がある。 この場合、2点ともに奥行きのある空間の存在、空気感の表現が希薄で、持てあまし気味 である。「折鶴」を例として、ぼくが簡単な応急措置をしてみたのが修正分で、いろいろな 方法があるが、これはその一例、その違いを感じ研究してもらいたい。 |
|
|
||
|
|
|
||
|
|
「夏の思いで」 西浦正洋 モンタ−ジュの醍醐味は、現実には同居しないような要素が火花を散らす異次元の組み合 わせのスリルが一番だが、それは作者の思想・理念にはじまり表現、構成も相当にむつかし い。そこでモンタ−ジュ入門としてこの例のような現実に演出すれば可能とも思えるシ−ン の表現から始めるのは手堅い方法である。 技法としてこうした足し算的な場合には、主題をいずれにするか、花火とひまわりの表現 スペ−スの比例を大きく変えないと成功率は低くなる。 それぞれの大きさを変えたアンバランスのバランスといった思いきった試作へ進めば、さ らによく分かるだろう。なお、白い点々は挟雑物になっている。この入れ方ではかえって作 り物のイメ−ジを強調する結果になる。できるかぎりスッキリ、スマ−トを心がける気配り が大切だ。 「夕帆」、「ワイングラス」は類型が多く、更にダイナミズム、あるいは奇想天外とまで は行かずともアイディアと構成の妙が試されるところである。 「オブジェ」 森下弘 この昆虫様のオブジェは、かなり変わった素材である。冷たい金属製の昆虫の不思議なニ ュアンスが、徹底したク−ルさで表現されていれば作品になったろう。 ぼくは、どうしてこれほど複雑なバックにしたのか意図が判然とせず不思議に思った。 できるだけシンプルで、ほんのちょっとした変化のモノト−ンに近いバックで、主材を端 々までギリギリの精密描写で表現し、バックは逆にエキセン・トリックなカラ−バックを選 ぶなど、形式はいろいろあるが徹底することが大切だ。 「夏の思い出」、「紫陽花と女」は、整理不十分な画面のために、興味の中心がどこにある のかわかりにくく、バックに人間が負けている。煩雑な環境でもメインになる人物はできる だけ大きく目立つような整理、構成をすること。 「マーチング・ドリル」 藤本茂樹 これはこのイベントの典型的な紹介写真として通用する作品になっている。左と下を少し カットすると、もう少しまとまる。 2点の赤外フィルムによる作品は、おそらくはじめての経験か、その視覚効果を認識して いないための欠点が出ている。 赤外フィルムの性質として、空は暗く、白雲はさらに白く、新緑はことさら明るく表現さ れ、その度合いが分かってくると、構成も変わってくるだろう。そうなると白昼の撮影でも 月光がしたたる夜景に似た風景のような写真も撮れる。 この写真の場合、白雲も白いシャツも真っ白でつながってしまい、それぞれの形まで不鮮 明なため、わずかに応援の熱気が分かる程度になってしまった。 赤に近い波長は、太陽や白熱灯からふんだんに放射されているが、それが写真の上に異常 な効果を表す。ぼくは初めテストとして、フィルムの性質を見極めるため、赤フィルタ−だ けでなく、オレンジも使って見た経験がある。 「馬上の笑顔」 嶋尾繁則 これまで風景専門であった作者が、スナップ・ショットの入口で戸惑っている感じだ。 少年の楽し気な様子はわかるが、こうした画面では、主題となる人物をバックから浮き上 がらせ、明確にするための配慮がスナップ・ショットでは鉄則である。この場合、顔に重な る後ろの柵を避けるために、相当カメラ位置を下げる必要があった。 「ジャグリング」も頭の上の大きな梁のようなものが重苦しく目障りで条件が悪い。いず れにしても、こんな場合、ぼくは記録にとどめ、作品として成り立つカメラ・ポジションや その他の条件を捜すか、タイミングを待つ。 水平線で首を切ったり、頭の上に電柱があるといったことは、絵を描く場合には誰もやら ないが、写真では条件が悪くやむなくそんな写真でも使わざるを得ないことがある。 新聞や雑誌で、そんなカットを使うとき、昔は邪魔なバックをエア−・ブラシで消したり 霧がかかったように薄めたりしたものだが、カラ−時代の今日では、目立たぬ色に変えるこ ともある。いずれにしても、マイナス条件は報道写真家でもできるかぎり避けて撮るのが一 般である。 ユ−ジン・スミスが1インチのカメラ位置の上下左右の違いで写真の造形が決まるという のは、物と物との視覚的、心理的な関係づけのことで、このような条件のことでなくもっと 厳しい密度の話である。 (註) 塾生各位の個々の写真についての質問などあれば、僕が在宅する確率の多い 週末から週はじめ4日間位に、電話をしてくれば、僕が居れば即答できる。 その時の僕の都合で再度、時間帯を変えて電話してもらうこともある。 居なければ家人に在宅日を聞いてもらいたい。 僕はパソコンで書くより話す方がずっと楽なので、遠慮なく。 (在宅の確認は管理人ゆきに聞いても、だいたいの予定がわかるだろう) |
back