<玉井瑞夫繧繝彩色塾>

           ☆  ワンポイントレッスン (13) ☆             月例会先生評(2002年6月)                 < HPにおける研究会の諸問題 >     

 「玉井瑞夫インタ−ネット写真展・写真講座」をはじめて2年、「写真繧繝彩色塾」を開
いて約1年。ぼくはかねてから70歳からは写真に関するボランティアを志していたが、こ
の講座、塾はその一環として僕なりの信条を生真面目にやってきた。
     
 年老いても、創作にかかると体力を忘れてのめり込む性格は変わらなかったが、めまいで
入院をしてからは、その昔のような体力のない自分の限界を思い知らされ、講座を書くよう
になってからは、あるプロ写真家の限られた体験でもそれが徹底した展開なら、他山の石、
多少はお役に立てるのではないかという期待も、生きがいのひとつと思うようになった。
     
 この2年間のHPでのはじめての体験は、貴重であった。友人たちから近頃は女性の写真
熱が高まっているとは聞いていたが、それも肌で感じた。               
 それは生活に写真を取りこむことによって日々が生きやすくなったという彼女たちの告白
や表現というものが、高みから降りて生活者のレベルに近付きつつあることを示していた。
     
 日々の生活に閉塞感を覚え、それをなんとか打破したいという願いが、直感的に写真とい
う方法をつかんだのであろうか。写真は絵画とちがって、シャッタ−を押せばとりあえず何
かが写るし絵より満足するものができる度合いが高い。さらに、写真は現実との接触をとら
え内向する自己を外へ押し出し、現実とのかかわりを見いだす役目も果たしてくれる。  
 これらは、現代の表現の場がはらんでいる興味あるテ−マであろう。
    
 こうしたHP写真の中には、あいかわらず褒め殺しもあったが、はっきりした姿勢でかな
り表現力のある写真も見かけ、アドバイスの仕方では将来、自分史ができるぐらいの域に向
かえそうな人もあった。
     
 つい、余談が長くなった。ぼくたちのコ−スは、ルネッサンス時代の生きがいをサンプル
に、現代に生きた写真作品をつくることにある。その要素の再認識のために、ぼくが乱読し
てきた書物のなかで、大切な条件だと思ってきたことの2、3を述べ、その効果と展開を今
回の解説としたい。

        

    

<心静かに、考えながら、読み、そして書くこと>

    
 「読書は完全な人間をつくり、談話は機転のきく人間をつくる」「書くことは、正確な人
間をつくり、思想家をつくる」(ジョ−ジ・ギャラップ) これは以前にも紹介した。
    
 この表現は少しオ−バ−だが、この映像氾濫時代には必須の条件として、世界の学校教育
でも見直されていることである。                          
     
 歯医者の話では「近頃はソフトな食物、消化の良過ぎるものが多くて、アゴの骨の発達が
悪い。もっとハ−ドな食物をよく噛み、歯を強くしなければ、脳の発達にも弊害がある。」
という。                                     
 これを読書に置き換えると、「文字を読むことは、時間がかかり、行間からも考えること
になり、人間に深みをつくる。」、「音楽と映像だけに明け暮れる若者が第6感だけの発達
では、人格形成のバランスにかけることになり、さらに、○×式の詰め込みは、脳細胞の絡
み合いを故意に妨げ、考えさせない習慣をつくる」ということになる。
     
 3分の挨拶には、30分の思考がいるといわれる。書くことは更に時間を要するが、思想
家をつくるというのは、けだし名言である。

< 人 師 >

    
 これは、あまり聞き慣れない言葉であろう。                    
 人師とは、生きた生身の先生、師匠のことである。
    
 ソクラテスの弟子のプラトンという人は、たくさんの本を書きながら、本の一面を否定も
している。彼は書物というものは、「記憶力をだめにする。本を開けば書いてあるから、暗
記しなくていいということになる。次に、ある書物を読んでも、それを書いた人に質問がで
きない。さらに、本は相手を選べず誰の手にも渡る。自分に適当かどうか、行き当たりばっ
たりに読んでいることがある。つまり、書物というものは補助手段に過ぎない」という。
    
 変なことを言う人だと思ったが、終局でわかってきた。彼は、本は大切なものだが、さら
に徹底するには、「本当は我々が師匠と出会って、質問したり、答えたり、つまり対話とい
う形をとらないと、人間というものは真理に到達できないものだ。」ということであった。
 彼は遥か昔、古代ギリシャの哲学者である。
 本と人師、両方を得られればこれに越したことはない。
     
 このことは西洋も東洋も同じで、バイブルはキリストが書いたものではない。弟子との対
話である。ソクラテスもそうだし、釈尊も、孔子、老子もみんなそうだ。自分で宗教のこと
を書いたりするのは現代人だけである。                     
     
 歎異鈔も親鸞聖人が自分で書いたものではなく弟子の唯円に口伝てに言ったものである。
そして、その教えというものは、親鸞が法然上人に出会ったということではなく、法然個人
のなかに現れた阿弥陀如来の本願に出会ったということである。            
 とにかく、自分がどうしようかと思っているときにある先生に出会って、その先生を通し
て教えられたものであり、しかもそれは先生個人の信仰ではなくて、その先生のまた先生が
あり、そこに脈々と流れている法というものの、その生命を受けたということである。
    
    
 考えてみれば、現代も大して変わらない。
 ぼくの人師としては、前衛画家の瑛九氏と渡辺好章氏のお二人がある。渡辺氏は、殊に中
近東や東洋の古美術・彫刻に詳しく、個人的には性格的に同類項といえる土門拳や流政之な
どを支持する相当に個性の強い辛口の写真評論家っであった。ぼくは氏が所蔵する数々の中
国やルリスタンの古美術をこの手に取ってよく眺めたものである。
    
 ぼくが瑛九の言った言葉をよく引き合いに出すのは、「歎異鈔」を書いた唯円の立場のよ
うなものである。                                 
 一般の画家は、ひとつの画風で評価を受けると終生その亜流を描き、保身と名誉を守り続
ける人が多いが、瑛九はひとつが完成するといさぎよくそれを捨て、さらに次のものに挑戦
した、その連続の生涯は、まれにみる真のクリエイタ−であった。           
 
    
 また、啓蒙家の瑛九は自分が開発した手法を惜し気もなく、集まってくる若い画家たちに
教え、多くのすばらしい画家を育てた。ぼくは瑛九から絵の手法は学ばなかったが、造形の
原理と創作への心構えを、血の通った面綬・面受で学んだ。              
 ぼくが瑛九に会った2、3年後に瑛九のところへやって来た細江英公、奈良原一高も同様
であった。瑛九は余りに早く逝ってしまったので、<彼は天才だったのだ>と僕たちが気が
ついたのは、モ−ツアルトの妻が離婚した後に、「彼は天才だったのだ」と気がついたとい
う話とよく似ている。
    
 ぼくの人師としての瑛九氏と渡辺好章氏のお二人から得たもの、ぼくが開発したもののす
べてを写真を真摯に心がける人達に、できるかぎり忠実に伝えたいと思っている。

              

< 言語表現のプロセス >

 
  以下は、上記の宗教や哲学の人師から弟子への口伝のやり取りが文章になるまでの過程
 での共通性を示したものである。
   
  宗教を愛情と置き換えたほうが分かりやすいかも知れない。また、その他ある事象に対
 して評論、感想などを述べる場合も、いづれにしても、ある一定の過程がある。
  言語表現の一番正常な形は、次のようなプロセスで行われるといわれる。
    
                                    
    
1.感動、あるいは苦悩など
    
     これは、その事がらの根本にある内容の問題である。
   
2.沈黙
    
     2番目の段階として沈黙の状態が来る。感動とか苦悩とかは、そう簡単に表現で
     きず、沈黙せざるを得ない時間がある。
 
3.表現欲望
   
     そのうちに、言おうと思ってもうまく言えないことをいってみたいのが、本当の
     表現意欲である。
 
4.表現してみる
    
     口に出して言ってみる。あるいは書いてみる。そうすると、自分の言語表現は、
     ひどく不自由で、不完全だということがわかる。
    
5.推敲に推敲を重ねる
     
     自分の言いたいことを100パ−セント表現できることは1度もない。大事なこ
     とをいう時は、同じことを何遍も言い直したり、繰り返したり、書いたり消した
     り、つけ加えたりする。人間の表現というものは、永遠に未完成で、完成したよ
     うに見えるのは、「中止」した場合だけである。 
    
   
     
 これは、正常な人間の姿である。これが崩れると、「精神の危機」になる。
 現代に生きるわれわれには、そんな危険な兆候が現れている。外部から刺激を受けないと
精神が反応を呈さなくなる。何か刺激を受けないと、何にもできない。これは精神衰弱の第
一歩である。その特長は、沈黙の状態が消滅して、なんでも軽くしゃべってしまう。   
    
 現代は狂信と軽信の時代。これは宗教だけでなく、すべてにわたって軽々しく信じ、そし
て沈黙の状態を失って何でもおしゃべりになってしまう。それからの一番大きな欠陥は、推
敲の精神が消滅してしまい、なんでも簡単に割り切ってしまうことだ。
     
 刺激と饒舌、即断と忘却、これが精神の危機の端的な現れである。われわれは、これを克
服する抵抗力を養う必要がある。自分の言語表現が正常であるかどうかという反省、精神の
深みが克服力になるといわれる。
     
 推敲の精神を豊かに持っていると、ひとつの仕事ですぐ満足するということは、あり得な
い。何遍でもやり直してみる、繰り返してみる、折角できたものをまた壊して、やり直す、
人間国宝級の人にそんな姿を見る。それが人間を人間たらしめる。
    
 この話は、「言語表現のプロセス」だが、創作のすべてに共通するので、取り上げた。

           

< 当塾の動向について >

    
 このところ、ぼくが気になっていたのは、月例作品の内容と提出の姿勢であった。
 ぼくは丹平写真倶楽部の2年間、写真誌編集部での2年間の例会訪問、新聞社の写真部で
はなく社員の有志による写真クラブ月例会の指導、玉井スタジオでの弟子たちの月例会の状
況などつぶさに見てきたが、HPでの当塾の月例会の在り方には戸惑っている。
     
 上記の写真の月例会の参加者は、月例会を待ちかねたように作品を提出し、会場に生気が
あり、作品も上手下手は別にして活気があった。しかし、当塾の月例会は会場がHPという
全員が顔を合わせることがないということもあってか、活気が伝わらない。このところは作
品も期日に追っかけられてやっと提出されているように思われる。やっと間に合わせるよう
では、作品は尻切れトンボ、料理をしない素材そのものが出てくる危惧もある。     
    
     
 こんな安易な作品提出の心配が生まれる原因は、HPという展示形式にある。
 もし、大サイズの印画紙に引き伸ばして提出する写真の例会なら、1点何千円から1万円
をこえるプリント代は当たり前、それだけ自分なりの作品選択の眼も厳しくなる。制作日数
もかかる。焼き直しをしながら、やっと仕上がった作品を前にして発表日を待つ気持ちは格
別である。
     
 それがプリント代も時間もかからず、何枚でも至極簡単に提出、展示できるHPの例会で
は、作品への愛着や期待もオリジナル・プリントを制作する者とは天地の差があるだろう。
この気持ちの問題は、もちろん写真上達にも影響する。                
 オ−ソドックスな写真をやって来たぼくなどは、あまりに安易な写真を見せられると、気
分が悪くなるというのは、近頃プロ仲間の話にもよく出てくる。
                                         
 余談になるが、自分の作品の選択はプロでも難しい。丹平時代のぼくは、撮影したフィル
ムは、すべて8×10の印画紙に密着をとり、その中からマ−クしたものを8×10に引き
伸ばして、壁に張りつけた。これを眺めて3日ももたないものは破り捨て、残ったものから
厳選して全紙に仕上げた。                             
 再撮は、密着を見た瞬間すぐ始めることが多かったが、3日眺めてヒントを発見すること
もあった。わけが分からぬが何か牽かれるものや季節を変えて写してみたいものは、天井に
張られ、それらが醸成し、まったく姿を変えて作品になることもあった。
  
      
 講座、講評への塾生のコメントは、人師としての僕と塾生の貴重な接点となるが、やっと
反省調は抜けたが、まだ流し読みなのか、ズレが目立つ。               
    
 今回の5月講評を例にとれば、ポ−トレ−トのハシゴをかけての解説で、ぼくが伝えよう
としたのは、「仲良し」にまつわる10代の素朴で単純な変化は前座で、それから5年後の
変化、ことに丹平での2年の大きな変化の現れが、Part8「私は天平を見た」の弁財天
に対しての姿勢であり、裏話に及ぶ全体の内容は、仏像という文字を人物あるいは被写体と
置き換えればそのまま通用するだけに、そんな理解を期待したものであったが、これに触れ
た者はなく、あの時点でPart8を再読した形跡も感じられなかった。     
    
 こうしたことは度々経験し、Part6の「風景」の説明の最後の5行の反語を交えた言
葉のために、質問があり、Part7の裏話に「あとがき」、「自然界への理解」を書いた
りした。つまり、ぼくと読者、塾生の間には、まだ姿勢と理解にかなりの隔たりがある。 
     
 ぼくは対話の中では、これまでこうしたズレをほとんど経験したことがなかった。   
 つまり、顔を見ながら応答する場合とHPではコミュニケ−ションに相当の違いがあるこ
とに戸惑いを感じ、とりあえず期間に余裕を見て、しばらく隔月例会にしてはと考えた。 
   
 作品の質的向上努力には、<言語表現のプロセス>の理解、推敲も参考になるだろう。
     
 講座、月例ともに少し間隔を開けて、リラックスしてフレキシブルに考える。先行きを考
えると、これはぼくの体調にもいい影響を与えるかもしれない。            
 HPでの血の通った伝授の方法があれば、喜んでぼくは教示を得たいと思う。

           

(註)
     
  塾生各位の個々の写真についての質問などあれば、僕が在宅する確率の多い
  週末から週はじめ4日間位に、電話をしてくれば、僕が居れば即答できる。
  その時の僕の都合で再度、時間帯を変えて電話してもらうこともある。  
  居なければ家人に在宅日を聞いてもらいたい。           
  僕はパソコンで書くより話す方がずっと楽なので、遠慮なく。   
  (在宅の確認は管理人ゆきに聞いても、だいたいの予定がわかるだろう)
  

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