<玉井瑞夫繧繝彩色塾>

           ☆  ワンポイントレッスン (12) ☆              月例会先生評(2002年5月)                 < 天才はハシゴをはずす >     

 これは、何をいってるのか、不思議なタイトルであろう。
 もうずいぶん前になるが、ぼくの所属する(社)日本広告写真家協会の講演会に、日本で
初めてロケットを飛ばした宇宙工学の先駆者、糸川英夫博士を講師としてお迎えした。これ
は、講演前にぼくと雑談している最中に出た先生得意のややパロディめいた言葉である。
     
 つまり、天才的な学者、発明家も絶え間なく厳しいワン・ステップづづの実験の積み重ね
研鑽の結果が形を表すが、そのプロセスを見せず、ハシゴをはずしてしまうので、より偉大
な業績として光り輝いて見えるものだという。
    
 ぼくはこの話を伺った時、広告写真の現役であっただけに、特に技術を要する分野のプロ
写真家がスタジオの撮影現場を、クライアントにさえ見せない例があることが浮かんだ。つ
まり、開発したノウハウ、企業秘密を守るといったことである。            
     
 ところがコマ−シャル・フォトのような専門誌はそれを誌上で公開すれば、それだけ読者
にはありがたく売れ行きも増すといったことで取材や原稿依頼をということになるが、取材
を受ける側のほうも心得たもので、肝心のキ−ポイントはボカシたり、話していないなど苦
笑したものである。
     
 余談になったが、今日の話は塾生諸君への(Part 28)の補講である。つまり
 <凡才がハシゴを見せる>といったこと。ぼくは天才ではなく、普通の人間がハシゴ  
 を掛けて見せるのも多少は参考になるだろうと思う。                
        
 材料は、Part 28の作品「仲良し」。左がヨッコちゃん、右は阿部さんという。

   

   

A

          B

C
   

D 仲良し

 

写真A、B、Cは、彼女たちが小学5年生ころの写真である。
 
A.は、良く晴れた晩秋の河川敷の土手の上、初心者の誰でもが撮る写真。「彼女たちは
  大の仲良し、いつも一緒にいる。すらりとした足がきれいだ。」という、ぼくのコメ
  ントがアルバムに書かれていた。
   ぼくは中学2年でカメラを始めていたので、多少はアングルも考えたのか、黄色フ
  ィルタ−も使い前景に草を入れ、土手下からの撮影である。ニッコリ、パッチリ、ロ
  −アングルからの代表的写真サンプルで、それ以上のものはない。
    
B.は、土手の草原で、楽譜のようなものを持たせての演出らしい。半分体を起こしかけ
  たようなすこし無理なポ−ズである。構成は散漫そのもの。阿部さんは目をつぶる不
  思議な写真だ。1枚しか撮らなかったのだろうか。
     
C.川口近く、海の見えるところへ移動している。
  海岸のコンクリ−トに腰をかけさせ、きれいな足を写そうとした意欲的な試みがみえ
  るようだ。でも、どうしてよいものやら持て余したらしい。この構成ではモデルに気
  の毒である。同じ日に少しづづ意図を変えて撮ろうとしたことはわかるが、ヨッコち
  ゃんの笑顔は全部ニッコリ、ハンコで押したように3枚とも同じだ。
  要するに形は変わっても内容は同じ。こんなタイプの写真は応募しても入選しない。
    
D.「仲良し」。これは、彼女たちも中学に入り、顔つきも変化を見せていたが、髪型や
  服装でやや大人びた少女に見える。しかし、現実の彼女たちよりもこの写真の方が、
  年齢も2、3才は上に見られるように写っているのは、ぼくの狙いの変化が大きい。
  
      
   写真の引き伸ばしができたとき、10代最後の年ごろのぼくが夢見たモナリザが、
  この写真の中でダブリ、このころ特有の清純な少女の色気さえ感じた記憶がある。
   この写真を当時の唯一のお気に入りとして、ぼくが大切にしてきたのは、この画像
  から受ける、僕という19歳の青年が、理想像とした抽象的なイメ−ジにあった。 
  おそらくこの2人の少女自身にとっても、この当時の写真の中でこれ以上美しく撮ら
  れた写真はないであろうと思う。(その後、会っていないので、わからないが)
      
   その技術的な分析は、やや高いカメラ・アングルによるデフォルメから顔の下半分
  が細っそりと、鼻すじは高く見え、ハイエスト・ライトのないソフトな描写が伏し目
  の表情にマッチしている。また、ちょっと変わった画面構成、空気感の描写に影響す
  るバック・グランドとのグラデ−ションも偶然にしてはでき過ぎている。このライテ
  ィングは、室内の天井へのバウンズ・ライトとほぼ似ている。
   いずれにしても、ハシゴを掛けたので、A.B.C.と D.とでは、わずか2年
  余りだが、まったく表現内容、レベルが異なったことがわかるだろう。
    
    
   本来は、ここで終わるところだが、とことんやるのがこの講座。裏話は、この年に
  なっても何となく気恥ずかしい話である。とにかく、この変化の原因を一番よく知っ
  ている僕自身の「自白的な解答」を述べることにした。
     
   
   A.B.C.の写真を撮ったころのぼくは中学4年生。キャラメルの広告にあるよ
  うな可愛い笑顔を最高のものと思っていた。意中の彼女もいなかった。
     
   それが中学5年になったとき、「幻の彼女」が現れた。            
   彼女はぼくが通う町の憧れの女学校の制服を着た4年生。眉毛のやや薄い彼女は、
  ぼくにはモナリザそっくりのように思えた。                  
  自転車で通うぼくは、毎朝時計を見ながら彼女とすれ違う一瞬に賭けていた。  
  彼女はぼくに何の関心も持っていないようだったが、おとなしい性格からか、すれ違
  う少し前からちょっと伏し目で通り過ぎた。それが生き甲斐のような1年間だった。
    
   ぼくの目を見つめてくれたこともなく、初恋は彼女に通じないまま終わった。一方
  的な失恋を経験した、多感な浪人時代の日々を送るぼくが、Dの写真を撮るころは、
  もうキャラメルの広告型の笑顔には興味を感じなかった。
   相手は違っても「幻の彼女」の伏し目の姿を、この少女の中に見ようとしたのであ
  ろう。ぼくのフィーリングで同じ少女たちが年齢の変化以上に、表情も内容も変わっ
  た表現になっている。
    
   ぼくも恋をし結婚もして、東大寺の三月堂で弁財天の欠けた顔を見ても知的な貴婦
  人を感じるような変化をした。物の見方も感じ方も急激に変わる事もあり、撮り方も
  表現もその人の在りよう次第ということである。(Part 8「私は天平を見た」参照)
    
   ぼくは、A、B、Cはただの写真、Dは作品と区別している。
   ついでながら、僕は自分の判断で、著作権を主張できる思想感情を創作的に表現 
   できたと思えるものを作品と云い、その他は単なる写真と呼んでいる。

< 月例 5月講評 >

   
  写真以前の問題は、講座を何度も熟読、凝視して理解してもらいたい。いま日本の
写真界の作品レベルは、骨格が弱く、脆弱になりつつある。将来、どこに出しても通
用する作品を目指してもらいたいので、そんな視点から講評はさらに率直に述べるつ
もり。これからはだんだんほめ言葉より、厳しい言葉の方が多くなるだろう。   
   
 簡潔、直裁に述べるが、かえってわかりにくければ、いくらでも質問に応じる。
  今月の作品は、全般に低調であったが、一応問題点を指摘しておく。 

    

   
   
   
  
  
  
   
  
  
    
   「クロネコ」 西浦正洋
          
      ぼくは猫を飼ったことがないので、よく
      わからないが、この細いポ−ズは、緊張し
      ているのか、オスマシしているのか。真っ
      黒で黄色い目はオス猫ということか。  
       無造作で荒っぽい表現だが、不思議な存
      在感がある。異様な迫力があるが、あとひ
      とつ何かが足りない感じがする。    
       それが何なのか、そこに本物があるよう
      な気がする。それを見せてもらいたい。
       インパクトだけでなく、深さを感じる作
      品へ。西浦くんが我が家のアホ猫というの
    はほんとうに可愛いのだろう。 

                     

  
「枯れ花」 上田寛

 「トコトンやる気、大いによろし」これ
は、大阪での丹平倶楽部の格言だった。
 上田くんも納得行くまでやる気になった
らしい。何により歓迎、声援を送る。
                      
  作品の方、だんだん形になりつつあるが
更に厳しいフォルムと構成を見たい。 
  さて、この場合、意欲はわかるが、光が
見え過ぎる。つまりライトが利き過ぎて肝
心の花びら、茎の表現がかなり荒っぽい。
 枯れた花びらはすでに水分を失い、潤い
のない紙のようになるため、そのデリカシ
−の描写はことさら細やかなグラデ−ショ
ン表現の配慮が必要だ。茎にしても両側か
ら挟まれたハイライトは過剰に感じる。
                 
 下部の色彩は、多過ぎる。ほんのかすか
に利いた程度、ほんのりある程度にしない
と軽くなってしまう。      
 光りをわずかに感じる程度での表現で何
ができるか、実験してみるのも悪くない。

  
「あしもと」 成瀬幸恵
    
  意外な感性の片鱗が見え隠れ、未だ磨か
れざる玉といった感じ。       
  「犬、ハト、人の足」。只今のところは
何もないようにみえるが、ぼくは手がかり
をつかみかけているように感じる。これだ
けの材料をこの高さと犬の目線の高さで徹
底的に写して行くと、必ず何かを発見する
だろうとぼくは予感した。     
 創作は重労働である。彫刻家がただの石
の固まりから、手探りで像を掘り起こし、
自分を発見するように、成瀬くんもここで
飽きるほどやってみると、まずシャッタ−
チャンスというものがわかるだろう。 
 それが体で覚えた基礎になる。即、実行
あるのみ。          

「NO.3」 山田 明広
     
 写真は、猿でも撮れるようになった。
 アメリカでは猿が描いた油絵が売れたと
いうことがあった。だが、これはア−トで
はない。サルは選択眼がないからだ。
   
 山田くんは、自分の感性イコ−ル選択眼
を頼りにブラウン管で遊んでいるようにみ
えるが、まだ何をやるかに迷っている。 
 ぼくもかってそれらしい事をやって見た
ことがあり、爪を研いだことがあったが、
写真家としてはそれでは食って行けない。
 究極の表現として、他の平面芸術と競っ
て負けない写真の特性も生かした表現をや
って来た。          
                 
 山田くんの現況を察するに、それは異な
る映像断片が<出会う>モンタ−ジュ効果
の発見であろう。        
 これを追いつめて行ったところが、簡単
に答を出さぬ何か、「WHAT?」が身上
なら、矛盾こそ意味のある現象であろう。
それらの表現は、相当に厳しい道である。
 しばらく、何が出てくるかぼくは楽しみ
に見ていようと思う。    

                   
他の諸君の作品にも、ぼくの忌憚のない感想・寸評を述べておきたい。
    
   
「視線」 森下弘
    
 動物写真はむつかしい。なかなか迫力のある画面だが、右下のハイライトは邪魔、とい
ってカメラ・ポジションと動物の動きを見て対応するしかない。ぼくはずっと犬を、それ
もペキニ−ズばかり次々と飼ってきたが、ついに気に入った作品は出来ずじまいだ。過去
形になるのは今はもう飼っていないからだ。                    
 近頃は、孫バカになってかなり写真を撮るが、客観的に見るととても作品として見せら
れるものはない。仕事としての写真ならその目的にあった動物や赤ん坊の写真が撮れるの
に、どうしたことかと自分でも不思議に思うことがある。この解答になるような作品を誰
か見せてほしいと思う。感想があらぬ方向へ向かい失礼した。
      
      
「棚田」 嶋尾繁則
  
 この構成は、ぼくには意図がよくわからない。ぼくの目を引いたのは、画面の右1/3
で下1/4をカットした部分であった。棚田を撮ったものでは、中国桂林のすばらしいも
のがあるが、水面の投影をうまく扱ったものは少ない。もう少しこの場所を徘徊し、縦長
い水面で投影を構成するのも悪くない。スケ−ルでは中国に劣るだけに、得も言われぬ切
れ味で見せてもらえればと思った。
      
      
「シルエット」 阿部政裕
    
 3点とも重過ぎる。写真には写真独自の魅力ある色彩表現がある。油絵ともパステルと
も違う。レンズを透したとぎ澄まされた色もあれば、フィルムのカラ−色素特有の色彩表
現もある。写真表現の特質を再認識すること。
    
       
「野いちご」 岡野ゆき
  
 この写真の原画は、カラ−だとうことでそれを見ないとわからないが、カラ−バランス
さえよければ、これでも成立したかも知れない。
 しかし、肉眼では赤い実が点々とある大きな野いちごの塊とそれにつながる遠い樹木も
グレ−・ト−ン一色では、フォルムもあいまいで漫然としてしまう。         
 つまり、作者はモノクロ−ムにおける構成上のグラデ−ション、明暗のバランス処理に
十分な配慮をしていない。本来は現場に立たなければわからないが、ぼくならどうするか
をイメ−ジしてみた。
 夕景か早朝か、いずれにしても遠い樹はシルエットにし、手前の野いちごは斜陽かスト
ロボでフォルムを明確に、単純化しての表現が浮かんだ。モノクロではすべての色がニュ
−トラルな明暗に表現される色彩の抽象化という第一歩の認識が大切だ。再度見直して見
ること。 
                  

< 久しぶりの独りごと >       
     
     
 以下思いつくままに。ぼくが言い、考えてきたこと、希望することなどを羅列する。
     
○一般的とか、常識とかいう言葉が、如何にアイマイで危ういものか。
    
○ぼくはこの講座をはじめる時、管理人のゆきに、写真文化につて語り合うことが他の文化
 にもつながり、その輪が水面に落とした石の波紋のように広がり、重なり合って行くよう
 な姿が見れれば楽しいなと言った。                        
    
    
○写真は独学のぼくは、力不足は承知しながらもボランティアの一環として、ぼくが体験し
 ぼくが信じる、ぼくだけの独断と偏見で、本音の解説、評論をしたいと希っている。  
 写真雑誌や教科書にあるような基本的な初歩的、一般的、常識的なものは、そちらで正確
 に学んでもらいたいと思う。
      
 そんなことからぼくの講座は、普通の写真講座とは違って見えるらしい。新聞の文化欄に
 「随筆」として掲載してはという先輩や知人、友人がいる。写真家はこんな目でものを見
 るのかということだが写真をやらない人にも興味のある内容だという。もちろん、こんな
 人は、論説、批評、出版あるいは各分野での創作を本業としてきた人である。
    
 本にしてはという話もあるが、これについては後1年はやらなければ概論も終わらないぼ
 く独自の<写真表現概論>、表裏一体の実践的なこの講座を書き終わってから検討しよう
 と考えている。ぼくが実験し開発した<特殊表現技法>はまだ走りを匂わせた程度で、詳
 しい紹介はしていないが、これは必要に応じて解説したいと思っている。
     
   
○ぼくの講座は、写真表現に関する必須のポイントの紹介とぼくの見方という評論と、ぼく
 の写真作品で成り立っている。(好奇心が強く、凝り性のぼくは、時に写真の専門家しか
 関心を持たないことや意味をかくこともあるが)
     
    
○ぼくが一番気にしているのは、講座の適例、鑑賞としての作品である。ぼくは仕事柄すば
 らしい先人、友人、知人の作品をたくさん知っており、それらを掲載したいが、それが意
 に添わぬことになっている。                           
 著作権のある第3者の作品の掲載には、原則として撮影した本人か著作権継承者(親族な
 ど)の承諾が必要だが、教科書的なもの、文化教養的講座なら、引用を大目に見ようとい
 う暗黙の了解事項のようなものがあるが、サイズがわずか名刺の大きさでは、ぼくの講座
 には使えない。                                 
     
 つまり本人の死後50年ではじめて大きく使えるということでは、ぼくの命が足りない。
 といって、写真家協会の指導する、サイズに関係なく1点10万の使用料を払っての無料
 公開講座では、破産してしまう。好意に甘えての使用はある程度可能だろうが、相手がプ
 ロではそう度々もいくまいとなる。ぼくは自分なりに責任をもてるものを掲載してはいる
 が、もっと良い適例作品があるのにと思うと、何時も気が重い。
    
    
○ゲスト・ブックは、公の場。ぼくの評論や作品へのコメントは、人間百人百色、こんな見
 方、解釈もあるのかといったことから、話題は発展、飛び火することもあろう。それが実
 技にヒントを与えることさえある。そんな形、それがなかなか難しいことは分かっている
 が、ぼくはそんな期待を持っている。評論などと堅苦しく考えず、アッサリ、ズバリの言
 葉や感想がありがたい。
     
 写真作品へのコメントは誰しも遠慮しがちだが、同様である。
 解析するにはそれだけの知識が必要だが、作品の鑑賞にはそんなものはいらない。
     
   小林秀雄の言葉を引用しておこう。
  『それにしても美術というものは面白い。人間というものの最も不可解でデリケ−トな
   謎、それらが形をあらわし、果てしなく微妙に分かるような分からぬような、そんな
   ところに魅せられるのであろう。』
    
 ぼくの部屋には、瑛九作品が3点ばかりかけてある。毎日目に入るが飽きることはない。
 一応の分析は何とかできるが、それ以上に分かるような分からぬような微妙な魅力がある
 のだ。30年以上も見ながら具体的には何が描いてあるのかわからないもので、好きな絵
 もある。ぼくには、むしろこの方が向いているらしい。               
     
 ぼくは、写真や絵の展覧会に行くと、周囲の人をどんどん追い越して見て歩くが、良い作
 品に出会うと後ろ髪をつかまれたように、何回も引き返して見る。これは本物だ。
    
    
○ゲスト・ブックは塾生諸君にとっては、ぼくとのコミュニケ−ションの場でもあるが、コ
 メントがオ−ル自己反省ではこれを見る来訪者も退屈する。下手をすると、ネコに小判と
 みられては、師匠は落ち込んでしまう。                      
     
 師弟間で優等生のようなコメントも意味がない。「背伸びしないコメントを自由に。」と
 しか言いようがない。平ったくいえば「謙虚に。」ということでもある。背伸びはすぐ化
 けの皮がはがれるし、まもなく疲れ果て1行のコメントも書けなくなるだろう。    
 ここは、師匠と弟子がその問題について、考え、検討しあう場でもある。また、その展開
 はこの講座を見る人々にも何らかのプラスになればとも思う。
  
     
○写真の歴史は、まだわずか160年余に過ぎない。ぼくはその半分ほどの年齢で、先輩た
 ちが何もしゃべらずにどんどん他界される。歴史は小さな話の集積だ。美術館とつきあっ
 ていると、ぼくが接した先輩たちのことやぼくのわずかな体験、うわさ話、何でも書き残
 して置いてほしいという意味がよくわかる年頃になった。ぼくは語部(かたりべ)の役目
 も多少はしなければと思うようになった。原稿に書くより講座の方が確実に残る。これか
 らも裏話や余談も書くが、つまらぬところは読まず、どんどん先へ行ってもらいたい。 
    
    
○塾生間の作品につての評論、感想のやり取りもやや活発化して結構だ。肩ひじ張らずにや
 ってもらいたい。ただ、ひとことだけ、年長に免じて言わせてもらいたいことがある。 
     
 入塾規定の条件にある「2。信義、礼節をわきまえている人」は、HPという顔が見えな
 い場であるだけに、殊に配慮が必要だ。
    
 <信義>の「信」は、欺かぬこと。言をたがえぬこと。真実。「義」は、正しいことを、
 打算や本音を越えてやること。
 更に加えるなら、<忠恕>がある。これは江戸時代では通常の言葉。語源は論語にある。
 [忠」は、真心。まじめ。「恕」は、思いやる。ゆるす。真の勇気は、忠恕にある。 
    
 以上は、司馬遼太郎の解説だが、まず、ぼくと塾生との間の信義が崩れると師弟は成り立
 たない。ぼくはそんな弟子は、人間失格として即時、切った。          
     
 信義は塾生間でも同様だ。活発な討論には、つい失言もある。といって時に冗談もいえな
 い雰囲気では、突っ込んだ討論もできかねる。駄洒落はやめて本物のユ−モアでといきた
 いが、これはとてもむつかしい。要は上記を心得ての気持ち、意志の疎通を大切にしても
 らいたいと思う。 
   
     
   (註)
    塾生各位の個々の写真についての質問などあれば、僕が在宅する確率の多い
    週末から週はじめ4日間位に、電話をしてくれば、僕が居れば即答できる。
    その時の僕の都合で再度、時間帯を変えて電話してもらうこともある。  
    居なければ家人に在宅日を聞いてもらいたい。           
    僕はパソコンで書くより話す方がずっと楽なので、遠慮なく。   
    (在宅の確認は管理人ゆきに聞いても、だいたいの予定がわかるだろう)

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