<玉井瑞夫繧繝彩色塾>

           ☆  ワンポイントレッスン (11) ☆              月例会先生評(2002年4月)                 < 写真のコツを知る >     

 今年は、東京では一週間も早い桜を見た。一斉に咲き、一斉に散るさくらを見ると、物事
の区切りを感じ、ぼくがちょうど1年前、この塾を始めたことを思い出し、さらにその連想
からその昔、写真学生を教えていたころの毎日が走馬灯のように浮かんだ。
   
         
 ぼくは写真学生に向かって、シャシン(初級)、写真(中級)、Fotography(上級)とい
った分類で話していたことがある。つまり、初級は入学から卒業までの4年間に、少なくと
もおしまいの「ン」までは行かないと、卒業させないぞということ。中級は写真として売れ
るもの、日本国内で写真家として通用する作品。上級はさらに横文字の「世界」に通用する
作品ということる。もちろん、卒展は漢字の「写真」として通用する作品を要求した。
     
 ところで、1年前のあの頃のHPを見渡すと、その多くが花の色ボケ・ピンボケのオンパ
レ−ド。もちろんこれでは「シャシン」の「シ」の入口あたりでウロウロといった状態で、
「これをまともな状態に戻すのは大変だ」というのがぼくの実感であった。
  
       
 この塾でも、写真を撮り人様に見てもらう以上は、どんな被写体を撮っても、少なくとも
おしまいの「ン」まで達したもの、とにかく一応安心して見られる写真といえる域に達して
もらいたいものだとぼくは思ってきた。
   
 この塾の去年5月の第1回目の講義は、不用意な前ボケをしないための「ピントの合わせ
方」から始めている。これは写真の基本は「精密描写」、「瞬間の固定」、「グラデ−ショ
ンの表現」という写真の3大特性の徹底だが、それらをストレ−トに解説しただけでは堅苦
しく退屈至極になるため、それらに関連するテ−マをあわせて「ワンポイント・レッスン」
とした。勿論、ぼくの実体験からのカリキュラムといえる「インタ−ネット写真展・講座」
と連係して立体的な見方、読み方でわかるように展開してきたつもりである。
     
    
 「写真は、ちょっとしたキッカケから等比級数的に上達する。感性の表現は、体で表現す
ることになる。」といったことは、ぼくが講座で初めから言い続けて来たことである。
   
       
 ぼくは学生時代、柔道にこり選手をやっていたが、相手を投げ飛ばすには、「相手の足を
タタミから1ミリだけ浮かせばもう空中だ、引き手さえゆるめなければすっ飛んで行く。」
と考えて、体の重心位置の上下、前後、左右への敏速な移動を、体に覚えさせる練習に熱中
し、ほとんど無意識の内に反応するようになった時、急に上達した。
   
 さらに、すばらしい発見は、183センチという大柄なぼくの得意技は、それまで力にま
かせての大外刈り、大内刈りといった相手を後ろへ倒す技が多かったが、これに徹底してコ
ツを会得した時からは、作用・反作用への敏感な反応から大男には苦手な背負い投げさえ出
来るようになったことである。
 
 こうしたことは、写真でもまったく同様だった。頭のなかで理屈を考えるだけでは、まっ
たく進まない。カメラを持ち体を動かしてある被写体に体当たりを繰り返し、思考錯誤・試
行錯誤の末に何らかの自分流のコツを身ににつけると、一事が万事とは行かないまでも他の
モチ−フでも急上昇することを体験した。 
 尤も運動で左きき右利きがあるように、写真でも大きく分けての得意、不得意の分野が生
まれるのは致し方ない。

        

< 月例 4月講評 >

   
  前書きが長くなったが、この1年間を振り返ってみると、塾生にとって一番変化の大きか
ったのは、「光を読む」ということであったろう。
                     
 これが写真学校なら実習のほとんどがスタジオだからごく自然に身についてゆくことにな
るが、HPではそうスム−ズには行かず、どうなることかと思っていたが、案ずるより生む
はやすしとか、ぼくの予想よりもうまくいったようで、やや安堵している。       
 具体的にはテ−ブル・トップフォトの実践の結果であるが、「枯れ葉・落ち葉」といった
テ−マへの試みの効果もあったのか、まだまだ不安定ながらも何とか形をなし始めたという
話が今月のテ−マである。 

    

「春眠」 阿部政裕
          
 彼がメロンへのライティングで、縞目や
影を表現した半年ほど前までの初期は、何
を表現し、何を言いたいのか、ぼくにもま
ったく伝わらず、本人も迷路をさまよって
かなり落ち込んでいたようだった。
   
 それが根気よく、あれこれ不思議なもの
を作っているうちに、何とかそれらしき作
品が突如として出来てきたといった感じ。
 この写真は、ピントもよくト−ンは抑え
気味で、ライティングは内容にふさわしい
配慮が見られ、コツをつかみかけているよ
うに思える。             
 惜しむらくは、間延びした構成、やや散
漫なバックグラウンドをどうして密度を上
げ、冴えをみせるか一考がほしいところ。

                     

  
「バラ」 岡野ゆき
        
 このところ、かなり荒っぽいライティン
グのテ−ブル・トップフォトを見せていた
が、今回の写真は一転して作品らしきレベ
ルの表現が見られる。
 花のハイキ−な渋い画面はかなりスマ−
トでこれが偶然できたとしても、本人が撮
ったのは間違いなく、やがてそれがレベル
となると信じて、謙虚な努力が大切。
 この画面での密度不足は、枯れた花のフ
ォルムの弱さにある。さらに被写体への厳
しい選択を欠かさぬよう。       
                   
 ついでながら、「長い橋」の画面構成は
セオリ−どうり。これといって難点のない
まずは安心して見られるというところ。 

      

「木」 梶山加代子
    
 この下の画面の原画で言えば、下と右を1センチずつ足すとだいたいノ−マルなバラン
スになる。下と右を足すのは、主題の木の安定感と力強さを増すためである。  
     
 せっかくの作品がどうしてバランスを崩すまでカットされてしまうのか、本人も分から
ないことが多い。これは一種のクセのようなものである。こうしたクセのある人やトリミ
ングで迷う時は、写真をぐるぐる回して見ると、よくわかるであろう。        
 例えば写真の天地を反対にして、目を細め、あまり質感にとらわれずに眺めれば明暗、
フォルムの全体のバランスからすぐよくわかる。つまり、天地左右どちらから見ても変わ
らない抽象絵画を見るようなつもりで見ればよい。
    
(この問題では、< Part.27>の「新しい空間」の4枚の卵を参照されたい)

    

(A)原画

(B)天地を反対にした写真

    

(C)トリミングしたもの

これは解説のための僕の勝手なトリミングである。一見は力強くバランスがとれてい
るように見えるが、これには大きな間違いがある。じっとよく見ればわかるように、
作者が意図した原画の主題であったゆったりと左右に連なった木は前景のようなもの
に、中景には何もないという画面に変化して、作者の意図を損なっている。
   
多くの魅力のない写真の原因は、形だけの構成にとらわれたこうした失敗によるもの
が多いが、これに気づかない者がほとんどである。               
これも大切なキ−ポイントのひとつである。
               
他の諸君の作品にも、ぼくの忌憚のない感想・寸評を述べておきたい。
    
   
「春爛漫」 森下弘
                             
  非常に素直で、題名どうりの雰囲気が伝わるが、カキワリ風で構成に一工夫欲しいとこ
ろである。左前方の3人づれの家族の服装のカラ−・バランスがとれているので、これを
題材にし、もっと近づいてスナップすればかなり雰囲気のある写真になっただろう。  
「暖炎」は、花のエッジや質感の不明瞭さで切れ味が悪くなっている。半分ソラリゼ−シ
ョンの第2露光のような色効果はおもしろい。イメ−ジをふくらませてみてもらいたい。
    
   
「夕暮れ時」 西浦正洋
       
  夕暮れ時の木のマッスとストロボによる桜花の表現は、今や定番になっているが、やは
り効果的な手法として今後もつかわれて行くだろう。
 大抵のシ−ンでは、太陽がいいアクセントになっている場合が多いが、この場合は下部
にある円形の太陽らしいものは、反ってバランスを損ない不要。撮影時の整理が大切。
 「サンシュ」は、多重露光、モンタ−ジュ効果が見られず、この辺で映画からはじまっ
たこの手法による表現の見直し、組み立てを原点から研究して見る必要もあるのではなか
ろうか。
    
   
「老木と桜」 嶋尾繁則
  
 苔むした老木と桜花の競演を試みたものと思われるが、もしそうなら欲ばり過ぎという
ことになる。ど真ん中に置かれた桜は、かえって画面を煩雑にしている。       
 この風格ある老木の右半分に、横ならびの緑の葉が上下にあるところにぼくは興味を覚
えた。このあたりをテ−マにして構成すれば、かなり斬新な作品ができたのではなかろう
か。桜を入れるなら片隅にさりげなく、頃は春であったといった程度でいいのでは。
      
      
「枯れ花」 上田寛
    
 作者は、枯れ行く花へのどんな感情を表現しようと試みたものか、その辺が判然とせず
伝わってこない。さらに突っ込んだ見方、枯れ行く花への作者なりの美学が欲しいところ
である。それが鮮明になってくると、具体的には、マッスとして見るか、どこに視点のポ
イントを設定するか、フォルムのあいまいさも解消する。
 バック処理への試みは、トライを続けるうちに、ある日偶然のようにそれらが生かされ
た作品が見えてくるかも知れない。
           
  
「ウェディング」 成瀬幸恵
  
 不思議な写真である。また、上下左右、これだけ切りつめたトリミングは見たことがな
い。まるで劇画を見るようなこの画面は、どんな意図があるのだろうか。今後どんな展開
を見せるものか。                                
 成瀬くんは、入塾後間がなくよくわからないところがあり、しばらくは様子を見ていよ
うと思う。「カラフルハウス」は、素材を見せただけで終わっている。このカラフルな材
料は、カメラ・アングルと大胆な構成で意外性のある写真ができる可能性があった。 
「ハッと思えば、写すべし」、これが関西写壇の雄「丹平写真クラブ」で初めて知ったモ
ット−だった。
                  

< 写真と俳句と >       
     
  もうかなり前になるが、3月初めに、塾生間の会話のなかで、写真と俳句の関連が話題に
なり、ぼくの意見も聞かれたが、いずれ講評のついでに話すといったままになっていたので
一言述べておきたい。
     
   問題はプロ写真家の高田誠三氏が、「俳句と写真を並べようとしても、写真は俳句の 
 説明にしかならない」といった話から始まり、さらに著書からの引用として、編集者の 
 「写真と俳句のドッキングは考えられませんか」という質問があり、それに対する彼は 
 「どんな俳句に対しても、写真や絵を合わせようとすると単なる説明的なものしかでき 
  ない。逆に写真に俳句をつけても説明になると思う。俳句はあくまで言葉の余韻だ」 
 「両雄並び立たず、全然別個のもの」という。        
      
 そして、「写真を撮る時、場面によって、日本画を思い洋画を思い俳句を考える。そし 
 てそれらを支えている神髄に近づけようと努力する」といった言葉が紹介されていた。
  
       
 ぼくはこの問題について書きながら、あまりに乱暴な話で、いささか戸惑いがある。
 そんなわけで、結論は後にして、まず写真史の上での前提として、写真と俳句のかかわり
を簡単に述べておこう。                              
     
 それは日本の写真芸術の歴史に関係するもので、大正末期から昭和の初期にはじまり昭和
の中期にかけてのア−トとしての写真は、おおまかに言えば、全般には泰西名画風、関東で
は俳画風、関西ではドイツのバウハウスの流れをくむ前衛絵画風といった風潮があった。
 ぼくが写真を始めて間もない頃の東京の写壇では、当時の指導者としては福原信三、路草
の兄弟による「光とその諧調」(1934〜41年)といった主張が全盛であった。
     
 「光とその諧調」というのは、文字どうり光とその諧調が織りなす情景をそのまま表現す
る写真作品で、ちょうど下手な俳句の写生句を写真にしたようなものが多かった。
     
 当時、ぼくの所属していた関西の丹平写真クラブでは、関東の写生句風の写真を蔑視し、
同じ俳句でも芭蕉の俳句には哲学があるといい、例会でのそんな話題に興味があった。
 やがて、関東でも土門拳の写真におけるリアリズム論が、アルス・カメラ誌で発表され、
光とその諧調といった風潮は色あせてしまった。
    
    
    
     
           以下は、この件に関する問題点である。
    
  ところで、この設問はスタ−ト時点から、すでにメディアに対する時代錯誤と認識不足が
 感じられ、冷静に考えれば、ナンセンスと見られよう。
  
     
○「両雄並び立たず、全然別個のもの」
    
 という高田氏の言葉は意味が通らない。写真と俳句は、全然別個のものと認識しているな
 ら、両雄並び立たずというのはおかしな話である。写真は視覚で思想を表現するもの。俳
 句は17文字で思想を表現するもの。 それらを無視して、それを同列、同一視点に並べ
 てしゃべらせようということ自体がすでに間違いであろう。
 
 写真と俳句の個性・特質を発揮させるレイアウト、よりスケ−ルの大きく深くなる構成、
 演出に配慮を怠っては写真家失格と言われかねない。
 
  わかりやすくするために、少し別の話をしよう。
  僕のお気に入りのビデオに、司馬遼太郎の「街道を行く」<モンゴル紀行>がある。
  この映像は、ビデオの動画と作家・司馬遼太郎の文章と画家・須田剋太の絵がそれ  
  ぞれの特性を的確に発揮して、内容は大きくふくらみ、3位一体でこのシリ−ズ随  
  一の傑作となっている。
  映像の美しさ・確かなフレ−ム構成と動き、作家らしい言葉と表現の豊かさ、画家  
  独自のタッチによる星空のきらめき、それぞれが見事な個性をみせながら、視覚的  
  にも心理的にもモンゴル高原の素朴なすばらしさを満喫させてくれる。
    
     
○「俳句と写真を並べると、結局はいずれもがお互いの説明になってしまう」      
    
 という論旨はいったいどんな俳句や写真を指しているものか、具体例が示されていないの
 で理解できない。いずれにしても両方ともよほど質の悪いものであろう。
     
  「寂かさや岩にしみ入る蝉の声」   
  「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」    
    
  いずれも芭蕉の句である。 後者は辞世の句で、芭蕉はこれを詠み、客死した。
    
  よく知られているこれらの句は、単なる写生句ではない。一念発心、この道を極めん
  として、修行僧のように旅した俳文紀行『おくのほそ道』、それらの内面には芭蕉の
  哲学があり、それらのスケ−ル、深さが人の心を打つのだ。こうした句を通り一辺の
  写真で説明させようというのは、見当違い無理な話でとうてい及ばない。
      
  その写真が視覚芸術の立場を心得た作品なら、併設しても芭蕉の句を損なうどころか
  映像としてのリアリティのある表現、時空がその場の印象を高め強めるであろう。
   
     
○「柿くえば鐘が鳴るなり法隆寺」 子規
      
 もし、陳腐な考えから
 この句に説明的な写真をつけると、どんなシ−ンになるものか。
 「ある秋の日、鍾楼の下で響く鐘に耳を傾けながら柿を食っている男がいる」、これは 
 現実に撮影可能だが、そんな写真が何の意味を持つだろうか。これでは漫画以下である。
    
 この子規の句には、淡々とした表現の中に、時空を越えたスケ−ルの大きさがある。  
 詠んだ場所などどうでもよい。奈良平野の一角には、天平の世からひっそりと、厳然と
 1300年の歴史をもつ法隆寺が存在するのだ。 
 正岡子規の見識は、彼の痛烈な評論、「歌よみに与ふる書」を読めばよくわかる。   
    
 写真は視覚芸術、言葉が終わるところから始まる。俳句も写真もそれぞれがもつ独立し
 た価値感を発揮しながらの表現、使用場所を得なければ意味がない。
    
    
○「俳句はあくまで言葉の余韻だ。」                        
    
 といった見方は、俳諧の世界を生きてきた人に対しては、非常に失礼な言葉であろう。 
 これは彼の不用意、軽卒な失言ではなかろうか。
  <珠玉のような言葉の表現そのもの>に生命と生涯をかけた俳人は、思想を行う人で
  はなく、思想を、磨きぬかれた言葉で語り、詠う人である。
  芭蕉も子規も、「言葉の余韻」といった程度のものに、生涯をかけたわけではない。
   
         
○高田氏の言葉で、ラストの2行がせめてもの救いである。しかし、彼はどうしてこんな乱
 暴で、曖昧な話をしたのであろうか。同じ写真家協会のメンバ−として、ぼくはずっと入
 会の早かった先輩にあたるだけに、厳しい発言に躊躇せざるを得なかったが、入門間もな
 い後輩たちが、間違った認識を持つ恐れを放置するのは決していいことではない。あえて
 ひと言申し述べておいた。
      
    
     
   (註1)
    何とか「4月の講評」は間に合わせることができ、ホッとしている。
    4月初旬を予定していた次の講座が1ヶ月も遅れてしまった。
    次のテ−マは、人間を知ること、人間を写すこと、「ポ−トレ−ト」の本質に  
    ついて、さらに写真と映画につて話すつもりでいたが、3月から4月にかけて
    野暮用も加えての超多忙と体調を崩してしまったりで、未だに手がついていな
    い。5月上旬までには何とかしたい。  
    
    物を書くことも、体の方もリズムが崩れるとペース配分もくるってしまう。  
    このところ友人とのミ−ティングも展覧会のオ−プニングも失礼した。そんな 
    ことで、あちこちから御心配をいただいたが、調子は回復しつつある。    
    この講座も後1年は書かないと、ぼくの考える<写真表現>の概論さえ終わら  
    ない。体力を温存しながらのペ−スは落ちるかもしれないが、何とか続けたい  
    と思う。 この講座に関心を持たれ、見て下さっている方々には申し訳なく、
    かなりのスロ−ペ−スもご理解いただければと願っている次第。 妄言多謝。
     
   
   (註2)
    塾生各位の個々の写真についての質問などあれば、僕が在宅する確率の多い
    週末から週はじめ4日間位に、電話をしてくれば、僕が居れば即答できる。
    その時の僕の都合で再度、時間帯を変えて電話してもらうこともある。  
    居なければ家人に在宅日を聞いてもらいたい。           
    僕はパソコンで書くより話す方がずっと楽なので、遠慮なく。   
    (在宅の確認は管理人ゆきに聞いても、だいたいの予定がわかるだろう)

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