<玉井瑞夫繧繝彩色塾>

           ☆  ワンポイントレッスン (8) ☆             月例会先生評(2002年1月)                 課題 < 枯れ葉・落ち葉 >        
   今月の月例会は、テ−マがあったので、総評とともに個々の作品に対する感想を簡明 
  に述べることにした。                             
  (月例は研究会のため課題以外の自由作品の提出も認められているのが一般である)
   
 物事は体験しないことには身につかない。行き過ぎれば引き返し、行ったり来たり、方向
 を間違えれば変えればよい。創造は、感性とか直感とか数多くの失敗や誤解から生まれて
 くる。また、ア−トには数学のようなただ一つの正解というものもない。
    
 とにかく作品の質は別にして、全員が個人的な状況を越えて課題をこなすという方向に新
しいスタ−トができたことはまず喜ばしい。                     
 物事の始まりはよく車の回転にたとえられる。それが回り始めるには、慣性モ−メントに
打ち勝つような数倍のエネルギ−がいるが、それは塾生諸君の気の合った熱意が補ったよう
に見受けられた。回り始めれば後は割合スム−スに運ぶもの。いよいよこれからが本番だ。
今後の展開に期待したい。
    
 今回は、初めてテ−マを与えられ、まだテ−ブルトップ・フォトを試みるのも初期段階、
作品の質を厳しく論議するのは、率直に言ってまだ早い。
 各人の作品は主としてぼくのアンテナにふれた各1点について簡略に述べることにする。
                

   
「無題」 森下 弘
     
ライティングがきれいでリズム感がある。
ただ真ん中に置かれたドングリは、少々不
自然で、扱いに一工夫欲しいところ。
光りを読むのは、理屈以上に感覚がものを
いうが、メンバ−の進歩はぼくの予想より
早かった。

   
「照らす」 嶋尾繁則
    
上部5分の1をカットし、左をつめればそ
のまま作品になるが少し右側が不足する。
全面で構成するには上部のグラデ−ション
に相当のコントロ−ルが必要だ。
2枚の写真を1点にしたような構成は、完
成すれば新しい表現が見られるだろう。

「習作1」 西浦正洋
     
やや大文字「Afghan」のある部分は
良い密度がある。他の部分もこれに近い密
度があれば作品になったであろう。 
ややコントラストを上げ、色彩に磨きをか
け厚みが欲しいところ。
この画面の印象は、池田満寿夫の初期の作
品に似たところがある。 
彼はよく、雑誌や新聞を破りとって台紙に
はり、そこにペンや色鉛筆で落書きのよう
なものを描き添え、作品を創っていた。

   
「作品1」 阿部政裕
    
ブル−の影に工夫が見られる。カラ−なら
ではのことで、初めての人はここまでやら
ない。だがワンステップを超えたところで
終わっているのは残念。肝心の枯れ葉にも
注力を。ついでながら、作品2のバックは
意図不明。色遊びに終わらぬよう留意を。

   
「枯れ葉2」  梶山加代子
    
偶然とはいえ、めったに見られない統一さ
れたこの色彩には、目を牽かれた。
朱がかったピンクに近い赤と青紫の波打つ
影。セ−ブされたエキセントリックなこの
色を生かす、とびっきりスマ−トな枯れ葉
を置き、シャ−プなフォルムと質感で表現
していれば作品になった。

   
「落ち葉」 上田 寛
     
傾斜した左上の青紫がかったブル−が利い
ている。これが更に進めば空間の時限に変
化を与える。右上の黒い三角はいらない。
肝心の落ち葉のフォルム、ボリュ−ムが弱
い。この不思議な質感をもつバックにふさ
わしい個性ある葉っぱが欲しいところ。 
基本的なライティングは良くなってきた。

   
「習作2」 岡野ゆき
    
この画面のキ−ポイントになる真ん中上部
の光りのフォルムがあいまいだ。正宗の名
刀が一閃するような光りなら成立した。
それが無理なら足下以下のライトとし、上
部ほど濃紺に近いグラデ−ションにすれば
この空間はもっと深くなる。

                                 

< 作者のスタンスについて >         究極は作者の哲学と美学
   
   
  今回の月例を眺めて、ぼくがことさら感じたことは、作品とか習作といった題名の
  多さが示すように、スタンスがやや不鮮明、厳しく言えば作者不在といえるものも
  あった。
  (作品とか習作といった題名をぼくが否定するというということではない。)
    
 また、被写体の枯れ葉・落ち葉にフォト・ジェニックなもの、ユニ−クなものが少なく、
イメ−ジの発展に弾力性が見られない原因がそこにあるように思われた。        
 その結果は技術面でのこだわりが目立ち、造形美とはうらはらの薄気味悪い妖怪変化(よ
うかいへんげ)を思わせるようなものも見られた。                  
 これはぼくの厳しい話、薬が利き過ぎたせいかもしれない。
    
 振り返えれば、もう1年以上も前になるが、ぼくが初めて接したこうしたグル−プのHP
の写真は、ほとんどがあまりにも表面的な美しさの追求のみで、花のアップと色ボケで遊ん
でいるようにしか見えなかった。そんな時、ぼくは講座で花が枯れ果てる瞬間にも美の瞬間
があることを話したが、これらに答えられる写真はなかなか現れず、更にピントのあいまい
さ、密度不足のものばかりで、作品への道は程遠いものと映った。
                                        
 そんなことから、塾を考えたのは、もし本気でやる人がいるなら、本物といえる写真の醍
醐味を味わい、ア−トとして成立するものにトライして見られてはどうか、ということであ
った。塾が開かれ、ぼくもおせっかい或は過保護にならねばと思いながらも、執拗に同じこ
とを何回も言ううちに、塾生諸君も光を読むこと、密度を上げること、精密描写を重視する
ことの要領をつかみ始め、最後のポイントは自分なりの哲学が大切なこともかなり理解し始
めた。これは第1ステップに昇ったことを意味し、ぼくもやっと安堵したのがつい先頃のこ
とである。
   
     
 さて、ぼくは一部の妖怪変化風の作品を前にして、しばし呆然としていたが、その原因は
「技法としての物理的なシャ−プさ、密度、強い表現ということだけに熱中したあまり、肝
心の自分の哲学・美学を傍らに置き忘れた結果がこうした表現になった。」ということであ
ろうか。言葉を換え、もっと広く言えば、自然体、全身で被写体を受け止めていないという
ことである。当たらずとも遠からずであろう。これでは相当に肩も凝ったことであろう。 
                                 
 妖怪といえば、ぼくの古い知り合の男で、古沢岩美という当時はかなり有名なシュ−ルな
絵を描く前衛画家がいた。彼の作品はお化けでも出てきそうな絵ではあったが、シュ−ルな
美しい画面であった。そこには破壊・崩壊するものへの美学があったからである。    
 薄気味悪く残酷なア−トでは、鑑賞に堪えないものである。            
    
 また夢幻能には、物怪(もののけ)めいた出し物が多いが、これは化け物ではない。  
 それは、例えば壇ノ浦の戦いで入水して亡くなった夫の亡霊が、都で待つ女房がのぞいた
庭井戸の水鏡に現れるといった男女の魂の交流であった。               
 世界で初めての演劇評論といわれる花伝書で知られる世阿弥の創ったものは、人間の喜怒
哀楽の情念を、極限まで見据え果てた結晶、ヒュ−マンなドラマの演出だから、能という抽
象的な様式での高度な表現は、かえって外国の人たちにもよく理解されるようだ。    
   
 ぼくのいう妖怪変化風作品に、もし滅び行く枯れ葉・落ち葉への作者なりの哲学による美
学が、昇華した形で表現されていたなら、ぼくはそこに妖怪変化を見なかったであろう。 
 ぼくがいつも解説でいう抽象され、普遍性をもって表現される究極のものは、その人の哲
学であるというのはこのことである。                        
   
   
(註)
  ついでながら、ひと言。                            
  写真表現技法のひとつとして、諸君もソラリゼ−ションを試みるようになったが、  
  その技法の結果の造形としての美醜をよく見きわめる注意、判断が必要だ。     
  特殊技法は、両刃の剣といえるものが多く、太陽と鉄の講座で、ぼくの初めてのソ
  ラリは偶然にもうまくいった例としてヌ−ド作品を掲載したが、あの場合、もしや
  り損なっていたら、美しいどころかケロイド状に見えるヌ−ドになつていたであろ
  う。   
  これを木の葉や花でやってもソラリのかけ具合では、ケロイド状の葉っぱや花のお  
  化けになってしまう。醜悪・無残な表現例も見られることが多く要注意。      
    
    
    
    
    
「自然こそ
    それは不変の価値である」
     
  これ以下は、ぼくのスタンスの話である。
  もちろん、人さまざまの生き方があり、哲学があり、表現がある。
    
  これは次の講座で、リアリティ、リアリズムといった話をするつもりで、書き始め  
  ていた原稿だが、たまたま今回の月例講評で、作者のスタンスについてといった話
  に及んだので、一足早く塾生諸君には、ぼくのスタンスも説明した方がわかり易い
  と思い、その原稿を今回向きに多少修正して、ここに掲載することにした。     
  (そのため、講座では同じ内容が再度出ることになろう)
   
   
 植物も自然の一部だ。たとえ人が種をまき、水をやり、手を貸したとしてもその根源のエ
ネルギ−は植物が持っていたものだ。 そして、ぼくは神秘さをおもう。        
 植物にとって最も重い掟は、終生の不動を宣告されているということだが、そこから始ま
るすべての命は、芽を吹き枝葉を伸ばし、あるものは花をつけ、やがて枯れ葉・落ち葉とな
るまで、生きてから死ぬまでの千変万化は、われわれを十二分に楽しませてくれる。
    
 前回、紹介した動物写真家の星野氏は大きい動物が小さい動物をとらえ、小動物がさらに
より小さい動物を捉えて生きる弱肉強食の厳しい摂理を肯定し、安易な同情が自然界の生態
系を損ない彼らすべてが生きて行けなくなる世界を警戒しながら、動物たちのたくましさと
数多くのユ−モアのある親子の写真を見せてくれた。彼はプロとして当然きびいしいシ−ン
も撮っているだろうが、残酷な写真は子供から大人まで不特定多数の人が見る展覧会には展
示していない。(厳しい写真は、学術研究の場では見られる)       
 彼はまたアラスカの四季折々の植物たちの姿、殊に厳冬の氷に閉ざされた厳しい花たちの
美しさを作品として、彼らのすばらしさに感動したことを述べている。
    
 彼の作品の特色は、見る人が注目する動物の姿だけでなく、その背後の風景も併せて確実
に描写していることである。どんな動物でも孤立しては生きて行けない。視線のかぎり広が
る雪原を歩くカリブ−は小さく見えるが彼らの生命を維持するためにはそれだけ広い雪原が
必要なのだ。動物と自然の関係をしつかりと読みとって、環境保護の大切さをさりげなく見
せてくれた彼の姿勢に、ぼくは感銘を覚えた。
   
   
自然と人間
    
 ぼくも似たような考えを持っている。ぼくは物事がわからなくなると、単純にストレ−ト
に考え、原点にかえる。
「空気はひとつ、国境はない」、「アジア人はなまけ者だ。天の恩恵のままで生きている」
という言葉を、時折思い出す。                
    
 「空気に国境はない」というのは、かって世界的なキノコ博士、森喜作先生の月刊誌の表
紙を撮っていたころ、先生が開発したというシイタケの胞子を培養してホダ木(ナラ、クヌ
ギの原木)に打ち込んで生産する現場で、先生がいった言葉である。          
 こんな胞子培養が始まるまで、ずっと大昔からつい先頃までは、春の季節風、中国からの
黄砂に乗って海を越え、キノコの胞子が飛んできた。そのお陰でキノコが食べられたという
ことから、世界中の植物には国境はないという話であった。海は種を食べた鳥が飛び越え、
海流はヤシの実も運ぶ。ひいては、人間以外の生物には、国境がないということである。
    
 「アジア人はなまけ者」というのは、司馬遼太郎の本にあったと思うが、紀元前、殷の時
代頃から青銅や鉄の精練には大量の木炭が必要になったことから、中国の大森林は切り倒さ
れ朝鮮に至ってはハゲ山にしてしまったことを皮肉をこめていった言葉である。ヨ−ロッパ
でも精練はしたが、長い年月植林もして奥深い森が保たれている。
  
     
 前置きが長くなったが、要するに地球という小惑星には空気と水があって自然と動植物、
さらには微生物にいたるまでが、それに依存しつつ助け助けられ共存しているということを
率直に認め大切にしてゆきたいというのが、ぼくの生きざまの基本、信条である。    
    
 ぼくは自然に対して、人間誰しもがもっと畏敬の念を持つべきだと思っている。 
 しかし、地球のもろもろの生物のなかで一番マイノリティ(少数派)の人間が、一番身勝
手、横柄で環境破壊をしていること、他の生物に迷惑をかけながら更に有限な地球資源を無
駄に費やす動物だということ、勝手に境界線を引き(自らをホモ・サピエンス<知恵ある人
>とよびながら、エゴイスティックな不思議な大義名分らしきことを並べたて、国と国、民
族の違いなどで子供以下のケンカをしている)ことも自覚している。
    
 そんな見地から、枯れ葉・落ち葉にしても、ぼくがあれこれ、ボ−ル箱一杯ほどもたくさ
ん拾い集めるのは、彼ら終局の姿としてできるだけ美しいもの、虫に食われた葉っぱでも造
形として立派に成立するものを選びたいからだ。葉っぱもそれぞれの個性があり、それを大
切にする。アダ名をつけるのは、それだけ親しみがあるからで、そんな素材をぼくの作品構
成のための単なる材料などと思ったことはない。    
   
 ぼくはその葉っぱが持つ魅力をぼくの意図する作品で、精一杯に発揮してもらいたいと願
い、ライティングも人間並みのことを考える。ダイヤモンドを写す時のように手をかけるこ
ともある。 手っ取り早く言えば、ぼくの自主作品では、ぼくがそのものに惚れ込まなけれ
ば、写す気になれない。
     
 「枯れ葉・落ち葉」(Part 22)講座での病葉(わくらば)など、死化粧をしてやるような
気分で、あの時はオマ−ジュ(献辞)になればと思った。また、前回の月例講評で岡野くん
のカマキリを修正したが、厳しい予兆を感じながら不吉、陰惨にならぬよう3種の色調を試
作し、結局ベ−ジュ系の上品な色調を選んだ。
    
 こうした問題では僕の講座の解説を参考にされたい。
 (Part 2 若女)(part 5  ひわれ フォルム)(Part 6  風景)(Part 8 弁財天)
 (Part 11 女嫌いの猿)(Part 17 火の鳥) その他         
    
       
 その人の生きざま、人生観、世界観、自分の哲学といずれもほぼ同意だが、ア−トとして
の写真表現、リアリティとは何かという問題になると、生死の観念の違いにまでおよぶ。 
 例えばある人物の単なる記念写真にしても、それは生きた、存在した、そしてやがて死ぬ
ことの証明になる。こうした問題は解説が長くなるのでチャンスを見て、また講座で話すこ
とにする。
  
  
  (註)
     
   塾生各位の個々の写真についての質問などあれば、僕が在宅する確率の多い
   週末から週はじめ4日間位に、電話をしてくれば、僕が居れば即答できる。
   その時の僕の都合で再度、時間帯を変えて電話してもらうこともある。  
   居なければ家人に在宅日を聞いてもらいたい。           
   僕はパソコンで書くより話す方がずっと楽なので、遠慮なく。   
   (在宅の確認は管理人ゆきに聞いても、だいたいの予定がわかるだろう)

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