<玉井瑞夫繧繝彩色塾>

           ☆ ワンポイントレッスン (7) ☆            月例会先生評(2001年12月)                 < テ−ブルトップ・フォトにおける考察 >     
 物事、動かなければ始まらない。
 人間には限界点を越えても何かをつかみ取ろうとするタイプと、限界点の内側で安
全にいようというタイプの二つがある。                    
    
 この越えると越えないの差は、たとえ薄皮1枚の差であっても大きな違いである。
 ある限界点を越えた一瞬、ダイヤモンドがキラリと輝くような感動は、越えたこと
のない人には、いくら伝えようとしても伝わらない。それは体験し実感するより方法
がない。もちろん、写真に限らず創作は、限界点を越えようという分野である。
     
 これがオ−ト・レ−スやスキ−の滑降レ−スなどの競技になると、肉体的にも精神
的にもすさまじくハ−ドだが、写真家もロバ−ト・キャパのような報道写真家や白川
義員氏のような山岳写真家も命がけである。
 これらは衝撃的な短期間を思い浮かべてのことだが、歴史上の人々の生涯を考える
時、科学者、ア−チストをはじめあらゆる分野での限界点を越えてすばらしい仕事を
なし遂げた人々を想うたびに、畏敬の念を深くするばかりというのが僕の今日このご
ろである。
    
 ぼくは、仕事柄かなり多くの社会人、写真家、画家をはじめとするア−チスト、写
真の弟子、学生などに接してきたが、ぼくが感銘を受け、有言・無言の教えを受けた
のは、すべて初めのタイプ、限界点を越えても何かをつかみ取ろうとするタイプの人
々で、年齢に上下はなかった。
    
 長々と前置きらしい言葉が続いたが、これはぼくがHPという画像の上で、言葉が
終わるところから始まる造形の話がどれだけ分かってもらえるものか、どこまで突っ
込んで厳しく言ってよいものか、その辺の呼吸が相手の顔が見えないだけに迷うこと
が多くなったからである。
    
 こんな時、もしぼくがユ−モアの達人ならうまく行くだろうにとよく思う。
 日本人はユ−モアが苦手だと言われているが、例の「人間零歳」の写真家、吉岡専
造さんが吉田茂元首相がユ−モアの大家だったといった話を思い出した。
    
 ある人が「総理はたいそうお元気そうで、お肌もつやつやしていらっしゃいますが
いったい何をお召し上がりですか」とたずねた。どうせお世辞であるが、吉田茂はに
こりともせず、「なにしろ人を食っていますからね」といったという。
 吉田は人を人とも思わない傲岸なおやじだと思われていた頃のことで、それを逆手
にとってユ−モアに仕立てたのは、なみなみのセンスではない。
    
 とにかく、ぼくにはこんなセンスはなく、短気でせっかち、おまけに単刀直入だか
ら誤解されることも多かった。尤も前向きの初めのタイプなら大方はわかってもらえ
ると思っているので、これから本格的に厳しくなる講評をぼくの個性のままに、率直
に話して行きたいと思う。
    
       

テ−ブルトップ・フォトで何を表現するか

   
 このところ、テ−ブルトップ・フォトらしきものが増え始めた。
 これは、なかなか結構なことである。これまでの写し方はほとんど自然の成り行き
まかせといったたぐいが多かった。それが一転して自分で被写体を捜し出し、大道具
・小道具の選択、照明から舞台・美術監督、脚本まですべてを自分一人でやるわけだ
から、物の見方、構成力は大幅に変わり、再度の花や風景の撮影でも構成や見方に格
段の変化が見られ、ぎりぎりの限界を試みることにもなるであろう。
                                
 当然、最初はまごついて何とも不思議な代物(まだ写真と言えない)になるのは仕
方ない。そんな心当たりの人もいるだろう。でもそれで良いのだ。最初に、「物事、
動かなければ始まらない。」といったのはこのことである。
 今月は、岡野くんの「かまきり」を問題として、考えてみよう。
                

「 すすき 」  岡野 ゆき (修正)

出品 原画

    

 初めて写真学生にテ−ブルトップ・フォトをやらせると、ほとんどが単なるリンゴ
を証明する静物写真か、人形などで少しム−ドのある凝ったものなら童話か童謡らし
いム−ディな世界をでっちあげようとする例が多かった。ぼくは「今頃、幼児体験を
するのかな?」などと冷やかしたものである。
    
 岡野くんの場合はこの域はもう越えていると思うが、ぼくはこの作品を見た瞬間、
作者には失礼だが思わず童謡の「十五夜お月さん」という言葉が口に出た。    
 といっても、こうした試みを軽視したわけではない。ぼくはその先がどう展開する
かを想像しながらアドバイスの言葉を探していた。次に感じたのは、すすきの下部に
ある黒いフォルムがあいまいで、構成上、画面を支える役目を果たさず意味がないこ
とである。(Part3 ポピ−のブル−バック参照) そしてソフト・フォ−カス
とも思えないピントの甘さも気になった。これらを総合すると、このままの構成では
弱くて表現しようとする内容がぼくに伝わってこないということである。
    
 例によって、ぼくは自分ならどうするかが映像として頭に浮かび、それをテ−マに
今月の解説を書くことにした。
 ぼくがこの写真をじっと見つめて右脳に浮かんだ映像は、ぼくがトリミングした修
正画像である。ここで間違えないでもらいたいことは、ぼくがトリミングで画像を救
おうとしているのではなく、もしこの位置でぼくが撮るならこんなフレ−ムで見るだ
ろうということである。(もちろん、ぼくが構成したものでないから、ぼくの感じた
イメ−ジにどれだけ近づけるかは、問題だが)
   
     
 ぼくはカマキリの終局を感じ、生涯を見る思いがしたのである。
 その表現のためには、もう枯れ切ったすすきの穂先はどこまでもピリピリしたシャ
−プな表現でなければならず、できれば中判か大判カメラで撮りたいところである。
色も甘さを捨てモノト−ンに近い昇華した上品で冷徹な色彩表現をしたい。    
    
 ぼくのフレ−ムでは、原画にあるすすき上部のライティングが生き、このハイライ
トで奥深い空間と静かなム−ヴマンを出している。全面の渋いマスタ−ドに近い色彩
とほとんどモノクロ−ムのすすきで構成された簡潔な画面は、作者の意図から大きく
変身しているが、これはぼくの主旨を通した結果であり、そうなるであろうことは、
一応事前に作者には話しておいた。基本色をシアン・ブル−にしたものも作ってみた
が、ぼくは最終的にはこのカラ−を選んだ。
    
 大切なことは、もし他流試合をするなら原画のままではとても通用しない甘さを、
肌で感じとることである。もう一歩掘り下げた内容が欲しいということである。
 写真は現実の複写ではなく、<もうひとつの現実>である。ぼくが見るカマキリの
いる画面は、その向こう側に抽象化された普遍性を見ることにつながる。
 
                                      
 こうした問題では、その昔、瑛九のところに集まったまだ若かった写真家や画家た
ちとよく討論し合ったが相当理屈っぽいものでだつた。その一端を述べておく。  
 つまり、『すべての生きものは、生きることにおいて<死>を用意している。われ
われが生きているという証拠は、われわれの内部に、<死>が存在している事実に外
ならない。ぼくの敬愛するキャパはその瞬間をとらえた。<死>と出逢った人間の姿
を通して、<生>の意味を記録した。この記録は、過去の記録であると共に、いま、
ぼくの目の前にある現実的な<死>そのものである。』といったことで、映画と写真
の違いなど面白い話もあり、そのうちチャンスをみて話したい。
                              
 この講も少々理屈っぽくなったが、ぼくは岡野くんがカマキリに凝って、「カマキ
リのゆき」では、侠客の女親分のようでおっかないが、「カマキリのゆきちゃん」で
通用する程の作品が見せられるほどになるのも悪くないと思う。
 あれこれ手を出し過ぎるよりは、ひとつの題材でコツを体験する方が会得が早い場
合もあるからだ。
    
 ついでながら、梶山くんの「宇宙」は、主材の表現が生々しくあからさますぎて味
気ない。逆光で輪郭だけを強調するリムライトで、主材そのものはシャド−のなかで
わずかに質感が表現される程度でよかったと思う。リング状の光りに副った今少し抽
象的な表現をということである。宇宙というタイトルは、この場合やや大げさ。控え
めなタイトルで鑑賞する側の自由に任せたほうがいい。
    
 また、本題に戻る。
 ぼくは、単なる感傷、安っぽいセンチメンタルなものは好きではないが、中学浪人
時代にのめり込んだ宮沢賢治の童話や天才的な童謡詩人の金子みすずの童謡は好き以
上のものである。金子みすずは最近また見直されてきたが、もう半世紀も前にぼくよ
り20歳年上の彼女の作品、「大漁」や「お魚」などに接した時の胸のつまるような
衝撃は、いまだに深く心に残っている。ほとんどのお母さんたちは知っているだろう
が、一応この二つだけでも掲載しておきたい。
     

  

  「 お魚 」

海の魚はかわいそう
   
お米は人につくられる
牛は牧場で飼われてる
鯉もお池で麩を貰う
  
けれども海のお魚は
なんにも世話にならないし
いたずら一つしないのに
こうして私に食べられる
   
ほんとに魚はかわいそう
    

「 大漁 」

朝焼け小焼けだ
大漁だ
大羽鰯の
大漁だ 
    
浜は祭りの
ようだけど
海のなかでは
何万の
鰯のとむらい
するだろう
   

  
  解説は不要だろう。こんな素晴らしい感性を見せた個性ある女性は珍しい。
 宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」「風の又三郎」といった童話や金子みすずの童謡
 などのような叙情豊かな作品を思わせるような写真作品ならぼくは大歓迎だ。
 是非拝見したいものである。
    
   
      
            風景写真におけるダイナミズム
   
    
 今月の風景作品では、嶋尾くんの「朝靄」、西浦くんの「夕照」など広い風景が目
についた。一応作画のポイントをはずさない作品で、安心して見ていられる。
 日本の風景写真の多くは、優美、繊細で外国での評価もなかなか良いが、国際展に
なるとスケ−ルの大きいヒマラヤやアマゾン、コロラドなどに圧倒される。では、ど
うすれば、これらに対抗できるかがいつも問題になるが、確たる答を見たことがない
ほどむつかしい。

              

「朝靄」 嶋尾繁則

「夕照」 西浦正洋

「アラスカ」 星野道夫

 それぞれの写真をクリックすると作品を大きく見ることができます。        

 HPでは、初め小さな画面が提示され、これをクリックするとキャビネほどの拡大
サイズで見られる。ぼくは更に頭の中で四つ切り、全紙に拡大して見ようとするが、
これらが果たして全紙、全倍にプリントしてもつであろうかと考えた時、ほとんどの
場合、NOである。
    
 その原因の大半は、密度不足、構成のマンネリである。小画面でかなりいけると思
ったものが、キャビネ・サイズでもう薄まってしまう。ことに風景作品には、ダイナ
ミズムが要求され、インパクト、ム−ヴマンという問題がある。         
 そして最終的には、その風景に対決した作者の哲学が心理的な影響を及ぼす。手っ
取り早くて分かりやすい俳句での例を上げると、単なる情景だけを詠む写生句とその
情景を詠んだなかに喜怒哀楽、哲学をも感じさせる芭蕉の名句との差のような表現力
の違いである。
     
 この問題は、長くなるのでまた項をあらためて講座で述べる。         
 ここでは、課題としてぼくの友人の動物写真家田中光常氏の弟子であった今は亡き
星野道夫氏の作品を引用させていただき同サイズで掲載するが、これが大サイズにす
るとボリュ−ムがすっかり変わり、差をつけられてしまう理由を考えてもらいたい。
   
  
          
 (註)
     
  塾生各位の個々の写真についての質問などあれば、僕が在宅する確率の多い
  週末から週はじめ4日間位に、電話をしてくれば、僕が居れば即答できる。
  その時の僕の都合で再度、時間帯を変えて電話してもらうこともある。  
  居なければ家人に在宅日を聞いてもらいたい。           
  僕はパソコンで書くより話す方がずっと楽なので、遠慮なく。   
  (在宅の確認は管理人ゆきに聞いても、だいたいの予定がわかるだろう)

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