月例会先生評(2001年11月)
今回は、ぼくの思いつくまま、感じたままを卒直に書いてみよう。強いてサブ・タ イトルをつければ、後一歩の詰めの甘さを改善する<トリミングとその理由>といっ た話になろうか。 |
< トリミングとその理由 >
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ぼくは奇妙な話だが、シルエットの風景を撮影(造形)しようと考えるとき、ファ ッションの仕事で、男の礼装タキシ−ドのモデルを撮る時のシ−ンをよく想い出す。 男性の黒と白だけの礼装は、色、柄が無く、もっともシンプルでスマ−トなオシャレ である。それだけにシルエット(フォルム)の表現には神経を使う。そこでは質感の ない黒、白とポ−ズのシルエットの微妙なフォルム、バランスが崩れたら、写真にな らない。 この風景の樹も同様で、シルエットのためにメインの主材に質感はない。その大き な樹木のフォルムを他の副材である右側の雲の表情と、樹の茂みの間から漏れてくる 太陽と川面から反射するやや色づいた光芒とのわずかな材料の微妙なバランスで、ど のような構成ができるかがテ−マになる。 ぼくもこうした何か得体の知れない大きな動物やモンスタ−のようなシルエットは 好きな方である。仮に、ぼくがこの場に立つた場合はどうするかを考えて見よう。 まず、ぼくはこの樹のシルエットの一番よいフォルムを捜して大まかなポジション を決めるだろう。つぎは、反射する光芒がどの位置にある場合が好ましいかを選ぶた め、左右に歩くだろう。また、樹の左右の空間とバックとのバランスを見るために、 樹に近づいたり離れたり、かなり歩くことになるだろうと思う。 この間、ぼくは肉眼でしっかり確認するだけで、カメラはあまり覗かないだろう。 やがて、構成がまとまったところでファインダ−を覗き、後は上下左右インチ単位で 移動しながらあるポジションで脳裏にビリッと神経が走った時が、その日におけるぼ くの決定的な瞬間である。 その後は、対岸の樹と手前の樹とのト−ンに差がでるモヤのある日を想像したり、 雪の日、木枯らし、新緑など、季節、天候、時間帯に変わるシ−ンを考えるだろう。 これは、ことさら大切なことだ。常にその当日が最高のチャンスとは限らない。 ぼくは、その被写体が作品となる要素ありと思えるものなら、その場のメモリ−と して2、3枚のスケッチを撮っておき、折に触れて決定的な条件が何であるかを模索 し、ドラスチックなチャンスを狙う。 多くの初心者があいまいな構成をするのは、漫然とある地点に立ち、ズ−ムで絵を 探すからである。自分の体を自分の意図する構成になる位置に運ぶ動きをしないこと が一番の原因であろう。体を移動することは、前景・中景・遠景の比例を変え、構成 密度を上げるための必須の行動である。 余談が長過ぎた。参考として、この原画の詰めをもっと厳しくしてみたのが、修正 分である。地面は半分にきりつめたほうが主題の樹のシルエットの印象が強くなり、 左の橋はこの場合、必須の要素ではないので切り捨てた方が単純明解、スケ−ルもや や大きくなったと思われる。 |
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これは、フォトショップで周辺を加工し、ファンタジックなイメ−ジ・アップを図 ったようだが、まだそのプロセスにありその意図が十分に伝わってこない。 ぼくが試みたトリミングは、最初の素材そのものになったかも知れないが、この作 為ある原画がこじんまりとして感傷と閉塞感があり、やや中途半端に思えたものが、 存在感と叙情のある画面になったように感じる。 僕がいう感傷というのは、感傷の多い画面は叙情が育ちにくく、かえって感傷は叙 情を溺れさせることを意味する。「−−−−それは名も知れない路傍の花のように、 新鮮な叙情は愛のように強い。」という文章があったのを思い出した。 |
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これは、風景写真のセオリ−を守っている。 タイム・ライフのバ−ク・ホワイトの撮った写真だったと記憶するが、前景に克明 なシャ−プさの白い岩があり、大きな谷を隔てて遠景に白い山がある「ダイヤモンド 鉱山」という有名な作品があった。これは遠くに見える白い山、ダイヤモンド鉱山の 全景を収めながら、足元の前景の質感描写でそれがどんな土質の山であるかをを証明 したものであった。 この渓谷は、左手前のシャ−プな岩の質感で、ずっと奥まで同質の岩がつづく現場 の全景がよくわかる。ぼくはこんな場所では、必ずタテ画も撮っておくことが多い。 それは、ある地方へ取材にいった時、その場所の全景を撮っておくが、これは組写 真として発表する場合、本のトップ・ペ−ジが片面、タテ画のことが多いこと、また 全景がヨコ画になりやすいものをタテ画で表現するむつかしさが、かえって思いがけ ず新鮮な構成を生み出すこともあるからだ。 そんな意味から作者にもタテ画のことを聞いてみたら、撮ってあるというので見せ てもらったら、ぼくがトリミングしたこのタテ画面とほぼ同様のフレ−ムであった。 ぼくが試みたトリミングは、シャ−プな左手前の岩を最小限度に取り入れ、中景遠 景を多くし、空も少しカットした。これで画面の重心が高くなり、力強さが増したと 思う。 他の作品について一言づつ述べると、阿部くんの全作品は、目下五里霧中。ぼくも 飽きるほどこんなことをやった経験があり、そこから何かを発見したり、徒労に終わ ったことも多い。創作は勘違いや間違いから生まれることもある。ぼくはしばらく黙 って経過を見ていようと思う。 嶋尾くん、上田くんともに静寂で生まじめ。ここからどうして自分流の表現を試み るかが課題、焦らずじっくりやってもらいたい。 岡野くんの「バラのココロ」は、真ん中に意味不明のフォルムがあり、これが構成 要素として必要なものかと疑問をもったが、HPの原画をみてその原因がわかった。 HPの原画の方がよいと思うが、影を映したホワイト・スペ−スはあくまでバラの 花を支えるもの、肝心な花の在り方、ライティングが弱い。花屋さんにしてはあいま いだ。もっとパンチのあるフォトジェニックな花を選ぶべきではなかったか。 (フォトショップのソラリゼ−ションは、本格的なこの技法を体験してきたぼくの 目には実に中途半端で、自分の意思による微妙で自由な色彩選択ができない。 あなたまかせのようなこのソラリゼ−ションは、どのようにコントロ−ルして使 うのだろうか。) さて、Part 23の講座では、写真を学ぶ人への心がけとHPとの関係など、 非常に率直に述べたので、多少耳に痛いと感じた人もあるだろう。 ここで当塾の月例に対するぼくの見方に触れておこう。 ぼくは47年前から弟子を持つようになり、晩年は写真学生を教えることもしてき たが、写真雑誌の月例もスタジオでの月例、当塾の月例も基本は同じである。 月例会は研鑽の場であり、自由で率直な討論の場である。 殊に、初心者や学究思考のものには、ぼくのいう写真表現への道やメンバ−同士で の発言は刺激になり、試行錯誤は最も早い上達への道になる。 例会への出品は、必ずしも佳作、秀作ばかりとは限らず、気にすることはない。 ぼくのいう佳作は、写真誌の入選、秀作は受賞クラスの意味である。 一般に佳作は年間に1作、秀作といえるものは3年に1作もあればよい方で、初心 者では佳作が3年後に1作もあれば優秀と言える。 それよりも例会では新作、旧作を問わず提出し参加することに意義があり、時には 自分で判断のつかない作品を提出し、問題を提起し討論しあうことも大切だ。そんな 場での刺激がなければ、さらに大きなイマジネ−ションが浮かぶチャンスは少ない。 そうしたことが可能なのは、こうした場しかないことを大切にすべきである。 「継続は、力なり」というのは事実である。 ぼくの弟子たちの場合を見ると、プロを目指して写真を学び始めてからプロとして 独立できるのは、10年なら早い方である。ぼくはアマチュア写真家で個展や自分史 としての出版の相談を受けることもかなりあるが、それが成立する人は20年以上の キャリアを持つ人に限られるほど少ない。レベルに達する写真がそう甘いものではな いこと、また自分らしい写真を撮るには、きびしい造形への憧れと強い集中力を持つ ことが必要だとわかれば一歩前進する。 半年も写真から遠ざかると、もう「写真をする」ことの真摯な意欲に欠け、刺激に も反応しなくなるのが一般である。ぼくは写真の第一線を引き、ボランティアに徹す ることにしたが、暫く撮影から遠ざかると、このことがよく分かるようになった。 このことは、画家や書家の友人たちもまったく同様だという。心すべきと思う。 (註) 塾生各位の個々の写真についての質問などあれば、僕が在宅する確率の多い 週末から週はじめ4日間位に、電話をしてくれば、僕が居れば即答できる。 その時の僕の都合で再度、時間帯を変えて電話してもらうこともある。 居なければ家人に在宅日を聞いてもらいたい。 僕はパソコンで書くより話す方がずっと楽なので、遠慮なく。 (在宅の確認は管理人ゆきに聞いても、だいたいの予定がわかるだろう) |
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