<玉井瑞夫繧繝彩色塾>

      

☆ ワンポイントレッスン (3) ☆

      月例会先生評(2001年8月)       

  このHPの講座を始めたのが去年の7月で、1年を過ぎた。
 僕は自分の体験から口癖のように、同じ写真をやるなら一般の人がやる10年を5
年で、5年を2年で、あるレベルに達するようにやろうといい、また僕の信念として
「自然界のあらゆるものと人間は平等であり、人間と人間は助け助けられて生きてき
た」ということから、70才からは非力ながら写真を通じたア−ト面での徹底したボ
ランティアを生きがいと決めた。
        
 それは主として、公益面から美術館その他へのボランティアから始まったが、僕個
人としての先輩、友人、弟子たちとの討論、個展への助言などへ拡がり、偶然の機会
から若い画家にも助言し、この5月からはHPでの塾もその一環として開いた。
      
 僕は塾を開く時、初めに頭に浮かんだことは、いづれその内に他流試合を薦めるこ
とになるが、それが何時になるだろうか、2年先か、3年かあるいは5年かなどとい
うことであった。(他流試合の必要性は、Pert3「私の花」にあり)
     
 他流試合、つまり公募展などへの応募は、力試しだけでなく塾以外の目を受けて更
に発展する足がかりにもなるものだ。僕の弟子で全日本カレンダ−展の最高賞、通産
大臣賞を受けたものもいた。これは大変結構なことで、一応箔はついたが、別にいば
ることもなかった。彼はこの時以来、非常に謙虚になった。自分の力の程が判り、更
に広く深い世界を志したからである。                     
       
 僕がワンポイント・レッスンをする意味は、日々の撮影がより楽しくなることが第
1義だが、将来の他流試合に備えて、必須の条件の習得も含まれている。僕はかなり
長い間、他流試合の審判、つまり審査員をやり、現在も世界の写真界の最先端の状況
がわかる国会図書館の研究室に出入りしているので、現在の公募展のキ−ポイントも
わかり、ひそかにそれへの対応も考える。
     
 今日、僕が公募展の話をしたことには理由がある。
 それは僕が名誉会員として所属する社団法人日本広告写真家協会(APA)が、ア
マ、プロ、会員、一般の垣根を取り除いた、真にオ−プンな公募展を始めたことであ
る。この方式は去年から試みに始めたが、今年度以降ずっと続けることになったとの
通知が先程あった。これは伝統ある絵や写真団体では画期的な変身である。    
 大きな特色は、誰でもがプロと同じ土俵で公平に真剣勝負をし、トップになれば、
経済産業大臣賞(1作品・賞状・ブロンズ・賞金100万円)をプロを差し置いてい
ただけ、文部科学大臣奨励賞(賞金40万円)その他10くらいの賞がある。
       
 この方式は、僕が現役時代に提唱していたが時期早尚と反対され、世界の大勢の流
れからやっと今頃成立した。感無量といったところである。これも僕の言う他流試合
候補で、時代は変わりつつあることを知っておくとよい。応募の要領・キ−ポイント
などは追々に述べる。いずれにしても塾生諸君は、まだスタ−トしたばかり、実力を
つけることが先決である。
     
 僕の講座は、アマ、プロを問わず、だらだら長くやっているだけでは力がつかず、
それなりの実力をなるべく短期で身につけなければ意味がなく、他流試合もそのプロ
セスのひとつのイベントに過ぎないことを伝えている。
 継続は力である。僕の知る限りではその個人の上昇期に写真から離脱したものが、
元にかえって生き残れた者はいない。
       
  余談が長くなった。今回も出品作の中からのワンポイント・レッスンとして、 
  西浦君、森下君の作品を題材に解説する。

              < モンタージュの入口は >    

「向日葵幻影」 西浦正洋     

 西浦君のHPを初めてみせてもらった時の数多くの「ひまわり」は、<特殊表現>
が僕の専門のひとつでもあって、記憶はかなり印象的であった。
     
 それはV字形の空を残し、その右側に大きな正面顔のひまわりのある強い写真や、
さらにバックのすべてが右にブレながら流れている写真、特に後者は画面を下部だけ
にしてみたり、右半分だけにトリミングしてみたり、この不思議な印象のリアリティ
を高めるにはどうすべきか、僕なりに思案した記憶が残っている。  
    
 これらの多くは、ストレ−トでストロボをうまく活用し、アップとの対比で新鮮な
切り口を見せ、ある域まで迫りながら、全く惜しいことにキ−ポイントがややあいま
いで、西浦流と呼ばれてもよい個性的な作品になるところだったのにと、思ったもの
である。                                
      
 今回は、多重露光による合成写真で、また西浦流の「ひまわり」が現れたので一言
話したいと思った。                             
 彼が試みた合成(モンタ−ジュ)は、切り抜き写真をはめ込むような味気ないもの
ではなく、アナログ的な手法によるものだが、これらが成功する条件の第一歩の課題
は、そこにありもしない現実離れの風景をデッチあげるのではなく、作者がそのシ−
ンを見た時に感じた深層心理(心理的なイメ−ジ、詩的なもの)がどこまでスマ−ト
に表現できるかである。
 元来、合成写真はそこに存在する自然その物ではないので、意外性、不自然さが見
られがちだが、その視覚的印象が詩的なものにまで高っていれば鑑賞者は共感し、そ
の画面に没入するので不自然とは見ないものである。
      
 西浦君の今回の「ひまわり」は、合成技法としてはかなり荒っぽく、この画面では
下部と右上に未整理があり、その処理と心理的なイメ−ジへの追求が後一歩であるが
その先には何かが出てきそうな気配があるのでとりあげた。今後に期待したい。
 僕は、ストレ−トにしろ合成にしろ、西浦君が好みの被写体で、納得の行く作品を
つくるコツを会得することを薦めたい。この後一歩というのは非常に厳しいが、そこ
で得たものは、今後他の撮影でもすべてに共通して生かせる。
 柔道で、後ろへ倒す大外刈の奥義を会得すると正反対の前に投げる背負い投げも上
達するといったことと同様である。以上はいずれも僕の実体験である。

               

           「 ヒマワリ 」  キヤノン年鑑より  

    
参考として、キャノン年鑑からひまわりの合成写真を引用させていただく。
これは一見視覚的なおもしろさから入選したものであろう。確かに目を引く
表現だが、上半分のアップの表現が単なるリアルさから作品としての奥の深
さ詩的な雰囲気に欠け、平凡なものになっている。西浦君の方が暴走気味だ
が、それだけにもう一歩の努力で強い表現が成立するだろう。      
撮影はレンズのごく直前に黒紙を置き、それぞれ上下にずらせての一般的な
手法だが、その発展的応用、手法も考慮にいれておくとよい。

           < 思いきったライティングも >      

      「 マスコット 」 森下 弘      

 生真面目で、正確に表現している。このライティングは外国流にいえば、女性の頬
に丸みと艶を出すパウリ−ライトつまり真珠のような光沢(質感)を表現する照明と
いうことになる。こうした表現は、やさしく平凡に見られがちだが、この場合は正解
である。ところでこの正反対ともいえるライティングについても述べておきたい。
     
 僕は30歳位の時、カメラ毎日という写真雑誌で、「アメリカの写真技法のキ−ポ
イント」をかなり長く連載したことがあるる。彼らの考え方は非常に合理的で、たと
えば動体の撮影では、マンガのブレのような動きの線を確かめるために、歩く人間、
自転車に乗った人間、走る自動車を、それぞれカメラにまっすぐ向かってくる場合、
カメラに向かって斜め45度の場合、カメラに真横に動く場合の3つの状態を実際に
写させるのが授業にある。(日本でこんなことをさせるのは写真学校でもなかった。
僕は学生たちにあえてやらせたが、一度で実態がわかり、決して無駄でないことを確
認した)                                  
                     
 これがライティングの基本では、なんと17世紀のオランダの画家レンブラントの
微妙な光の明暗から始まる。日本の営業写真館の人物写真の照明が方向、高さ共に人
物の前方45度からのライトが無難として常識化されているのに対してアメリカでは
勿論これを認めながら、もっと重視されていたのが写真で「レンブラント・ライト」
といわれる元祖の画家、レンブラントのそれであった。             
         
 レンブラントのメインライトは、彼の絵で具体的にいえば、人物がこちらを真っ直
ぐ向いている時、真横か真横のやや上の窓の方からの光が来ている状態で、人物がち
ょっと窓の反対方向に顔を向ければ、顔は大部分が影になる。影になった顔の凹凸を
表現するのは、絵筆でも写真でも非常にむつかしい。しかし、レンブラントはこうし
た陰影の多いライティングで、表情を描き分けて人間の深い精神性を表現し、多くの
傑作を残した。
      
 これが写真のライティングにも基本になり、これをさらに強く徹底したのがサイド
・ライト、エッジ・ライト、リム・ライトである。               
 サイド・ライトは英語ではスレスレのライトともいわれる。例えばヤスリの表面は
スレスレのライトで質感を強く表現して撮ること。エッジ・ライトはエッジ(縁)を
立てるように斜め後ろから輪郭をしっかり照明して撮ることであり、リム・ライトは
真後からの照明、つまり完全な逆光線で浮き立たせる、仏様が後光を放つような照明
ということになる。                             
 こうしたライティングは相当昔からアメリカ映画によく見られるが、物を周囲の他
のものから際立たせ、自己主張をさせることになる。多くの場合、象徴、抽象ともい
える表現になっている。こうした外国人の好みは国民性もあろうが、日本人の好む穏
やかな照明は、古来からの日本の住居がひさしが長く柔らかい陰影の数寄屋づくりに
よるともいわれる。
     
 ずいぶん前置きが長くなったが、森下君の写真はことに日本的な照明が多いように
思われる。森下君に限らず多くの写真家が、風景はじめあらゆる被写体に対して、外
国人の教科書ではごく普通のこうした強いライティングにトライし、その効果を体感
しておく必要があろうと僕は思う。食わず嫌いという人もいるからだ。      
 以下に、参考として上の解説とは多少離れるが、石でのライティングの変化による
表現を掲載する。

              

「 石 」 A

「 石 」 B

                       「石」A
    
真上からライトをあてたため、同じ岩石なのに中間のト−ンがなく、量感が
強調され重そうに見える。暗い部分が圧倒的に多く、岩の底部がエッジのぼ
けた陰影の中へ沈み込んでゆくように感じられる。
    
             「石」B
      
これは真っ黒から明るい部分へとト−ンが徐々にに変わっている。そのため
岩石の丸みがはっきりし、なだらかな質感を表現している。       
背景に比較して対象が明るいので、この岩は軽石のように簡単にもちあげら
れそうに見える。

   


           

       今回は、終戦記念日にあたり(?)、以下、各人の写真について    
       僕が感じた印象を、ひと言づつ述べておくことにした。
      (註:名前をクリックすると、作品を見ることができます。)
     
   
        
 嶋尾くん   「朽ち木」
     
 かなり良くできているが、こうした題材、構成は1920年代からエドワ−ド・ウエス
トンはじめ世界の巨匠が8×10の大判サイズで数多くの名作を発表しているので、
題材、スケ−ルからいってそれらを越えるのは大変だ。それらに対抗できるのは、セ
エンスと造形力である。参考の1つとして、石元泰博君の「桂離宮」の写真集を見る
ことを薦めたい。
 嶋尾君の場合は、大台ケ原というテ−マでの連作として見れば、これもその1点に
加わるだろう。ただ、こうした作品をどこかに単品で出す場合は、同じ題材でも印象
を強める効果から、森下君のところで述べたアメリカ式の逆光線など、強い表現のも
のを選ぶのが有利であることは言うまでもない。
     
    
 阿部くん   「水槽にて」
      
 人と魚の対比が不思議なシ−ンを演出するチャンスであった。肝心の魚が不鮮明で
これこそ大魚を逃した。
 好奇心の強い阿部君がどうして中途半端で引き下がったのか不思議である。ぼくも
水族館は好きな方で、何度も行ったことがあるが、子供たちの嬉々としたシ−ンも楽
しいが、そんなところで感じる、もうひとつのテ−マがある。          
     
 僕は、大都市の人工的なコンクリ−トのビルの片隅に置かれた一鉢の細々とした植
木を見る度に、自然と都市の間にある非妥協性という基本的な命題を感じる。少し理
屈っぽいが<ビルと植木の不調和性の表現>を撮って見たいと思うことがよくある。
 同様に、ビルの中にある水族館では、「ビルにおける人と魚の対比」が自然と都市
の間にある非妥協性ということになる。これが成功すれば心理的な訴求力からも相当
に迫力ある作品になるだろう。ややむつかしいかも知れないが阿部君も、もう一度ト
ライして見ればどうかな? と思った。
    
    
 梶山くん   「蓮」について
     
 2は、得意のライティングで、まずまず及第。1・3は、右と後ろの花との対比を
問題にするなら抽象絵画なら色だけでも成立するが、モノクロ写真ではもっとシャ−
プな質感と厳しいフォルムでなければ無理である。
 このところ、花をいつも(心理的に)等距離でしか見ていない写真が多い。もう一
歩心の余裕を感ずる作品を見たい。写真のスケ−ルが小さくなっている。これは全員
にいえることだ。このことは、その内にくわしく話そうと思う。
(掲載作品は「蓮2」)
    
    
 上田くん   「模様」
      
 最明部は、ハイライトを飛ばさず特にシャ−プに。現場はどうなっているかわから
ないが、僕は右は少し詰めて左の方へ連続する見え隠れする情景か、あるいは造形的
には下1/3を切り、上への情景を見たいと思った。 構成・密度としては、あと一
歩のところ。                                
 突飛かもしれないが、僕はこの質感からか奈良で見ていた木彫りの仏像の横顔に見
入ったシ−ンを思い出したが、この木(?)の正体は何であろうか。
 上田君の月例を見るペ−ジで、過去の他の写真を見れる案内があり、これを見て行
くほどに2、3の良い作品を発見した。また制作へのプロセスやクセともいえる特長
など窺えて有効であった。他の塾生諸君もこうした案内をしてくれれば僕は助かる。
    
     
 岡野くん   「水草」
     
 水草への立体感のあるライティングは申し分ないが、水面に気を取られてこの場所
を特色づける肝心の「つくばい」をもっと入れて表現する配慮を忘れている。   
 つまり、必要とする量を画面に入れ、水に濡れた石の質感をシャ−プに出していれ
ば作品になった。大魚とはいわぬが中魚を逃した。


      
「 参考作品 」 

                        「 無題 」  マン・レイ 1926       

これは、発表された当時、水平思考の傑作といわれた古典的名作。
70年のその昔、ドイツで新興写真運動が興った頃の作品である。
     
ただ、リンゴに突き刺さったように錆びた木ネジがあるだけだが、
見る人によってそれぞれの感慨を呼び起こす。       
その表現はコロンブスの卵。 真似るわけにはゆかない。

        

(註)
 
 何かの都合で、月例に新作写真を出せない場合、欠席するよりは過去の写真
 からでも出品した方が良いだろう。まだまだ相当期間、多くの題材について
 ワンポイント・レッスンを続ける必要がありそうだから。
 このところ出品作の題材が非常に狭い。もっとリラックスして、水平思考で、
 もっと幅広い関心を。
     
(註)
     
 塾生各位の個々の写真についての質問などあれば、僕がおおむね在宅する。
 週末から週はじめ4日間位に、電話をしてくれば、僕が居れば即答できる。
 その時の僕の都合で再度、時間帯を変えて電話してもらうこともある。  
 居なければ家人に在宅日を聞いてもらいたい。           
 僕はパソコンで書くより話す方がずっと楽なので、遠慮なく。   
 (在宅の確認は管理人ゆきに聞いても、だいたいの予定がわかるだろう)
      

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