<玉井瑞夫繧繝彩色塾>

      

☆ ワンポイントレッスン (2) ☆

      月例会先生評(2001年7月)

  今月はやや動きがあった。といっても作品の傾向のことではない。塾生諸君の重い
口が動き始め、やや活発な意見の交換が始まったということである。
 批評というものは、たとえ仲間どうしの意見でも気になるもの、かなりの自信作で
も時にはそうかなと思ったり、迷ったりするのが当たり前である。
     
 その内に右顧左眄が少なくなり、多少の理屈では動じなくなる時がやって来る。 
 つまり、自分への確信と批評眼が備わってくるからである。僕はそんな時がくるま
で免疫性を身につけるためにも、多少の見当違いの意見は黙って見ているつもりだ。
 しかし、あまり造形の原理から離れた不可思議な評論が横行する気配などあれば、
ひと言だけもの申そうかと考えている。
     
 今月の総評としては、多少目先が変わったように見えるものがあるが、それも当た
り前程度、一過性に終わるかもしれず、しばらく見守る必要がある。もう一歩の観察
力、構成力が欲しいところ。題材にももっと広い目が欲しいと思う。

        
< トリミングということ >
 写真には、3度のチャンスがあるといわれている。それは撮影時とネガの選択時と
プリント時の画面整理・密度を上げるためのトリミングである。
 だが、今回僕がここで問題として取り上げるのは、単なるトリミングではなく諸君
が撮影の現場でテ−マとなるべきところをしっかり見つめ、最終的な画像を脳裏でも
確認しているだろうかということである。
 今回はこれらを具体的に解説するため、2点の作品を取り上げた。
     
 僕が、トリミングについて書く気になったキッカケは、嶋尾君のトリミング・ミス
からである。僕は、彼の「竹林」を見た瞬間、ディスプレ−上で、画面右側が明らか
に3ミリは不足していると感じた。(右側ギリギリの道の曲がり角の部分は、殊更大
切な部分で、ここがあいまいで僕の目が不審をもったわけだ)          
 几帳面で10年ほどのキャリア−のある彼がどうしてこんなことをするのか、不思
議に思って原画を見たいと伝えたら、同じ場所の関連する4枚ばかりを送ってきた。
  

「竹林」 嶋尾繁則 出品作

「竹林」 訂正分

    

 この作品に対する鑑賞と構成のキ−ポイントは、カ−ブした田んぼ道とこれを挟む
左右の水田という前景兼副材の手前部分を思いきりよくを切りつめ、画面下部に必要
最小限、4分の1程度にとどめて主題の竹林を強め、バックの遠い空はカットして単
純化しているところである。                         
 細い道は、右側ぎりぎりからわずかに左へ曲って消え、その先はどこまで続くもの
か、奥深さを感じさせる。いつもながら安心して見られる構成力がある。     
    
 原画は幸い少し余裕があり、ぼくは当然右側の3ミリの必要部分も入れて掲載して
見せたのが、「竹林」訂正分である。

     

竹林の原画 A

現場全景 B

写真 C(現場全景Bよりトリミング)

     
 ところで、このテ−マの問題の核心をのべる材料は、「現場全景B」である。
          
 これは非常に平凡な田園風景である。諸君が、もしこの全景写真Bような現場に立
った時、この嶋尾君の「竹林」のようなトリミングで、作品を作ろうとしたであろう
か。一般には、Bの下部を少しカットしたり、何となくまとめた「写真C」のような
例が一番多くなる。しかし、これではいづれも平凡で力が弱い。         
 この天候、時間帯では僕も殆ど「竹林」に近い部分を撮ったであろうと思った。
       
 この画面には棚田もみられるが、日本には各地それぞれに特長のある棚田があり、
中国では梯田といわれ、山並みのすべてが棚田というすごい風景もある。この場合、
この場所に限定すれば、やはりかなりボリュ−ムのあるこの竹林が主題になろう。
     
 多くの失敗作は、竹林も前景の道や田んぼも、あれこれと欲ばって入れ過ぎた構成
で、散漫な間延びした風景にしてしまう例が多い。
       
 こうした日本的な風景は、地味でしまりの悪いものになりやすいが、この作品は、
平凡な題材が手際よくまとめられ、しゃれた佳作になっている点に注目し参考にすべ
きである。                                 
 日本の風景写真家は、大風景には恵まれず不利だが、日頃から構成力を鍛えておか
なければ、すばらしい風景に出会った時や外国の大きい風景に接した時に、それを料
理しきれない。
       
 僕はロッキ−などに出かけて、その人の個性ある見方(構成)など感じられない絵
ハガキ風、大風景に振り回されて帰ってきただけという多くの写真を見せられ、閉口
することがある。そんな写真をどこかに応募したいから選んでほしいといわれても、
結果がわかり過ぎているので答えようがない。

               

           「 蓮と蜂 」  梶山加代子 出品作

    
 づづいて、梶山君の「蓮と蜂」では、見た瞬間に画面の上が1センチ位、左が3セ
ンチほど不足している、これがあればかなりの作品になると感じた。
 これも今回のテ−マの一環として、原画はどうかときくと、あれはぎりぎりの画面
で上、左に余裕はないということであった。
    
 僕がこのシ−ンに注目し、脳裏に映った映像は、花びらのライティングの工夫によ
るグラデ−ションの良さ、バックの整理されたバランスを生かした雰囲気のあるゆっ
たりした構成である。 
     
 蜂はこのシ−ンでは、ム−ド・メ−カ−として格好の副材である。       
 しかし、あくまで、主役はム−ドある水蓮であり、これをすっきり素直に伝えるに
は、余裕のない構成では伝えられない。ほとんどできかかっていただけに、目的意識
の不足から、惜しいことをしたということである。
             

                「 蓮 A 」 梶山加代子 (トリミング例)

     

 僕は先の「蓮と蜂」に対して、もうひとつの見方があること。それを証明するため
に、いささか無理を承知で、正反対の別目的のぎりぎりの切り詰めたトリミングをし
て見せたのが、この「蓮 A」である。                  
 同例では、上田君の「刻」がこれにあたり、正解である。ただ更にその魅力をアッ
プするのは相当に難しい。                  
      
 これらは即物的、構造的な表現である。僕が本格的にこの目的で撮るなら、大型の
4×5で、花びらの縁の切れ味、かすかに見える筋まで、ぎりぎりシャ−プでがっち
りした構成をとり、時空には殊更配慮するだろう。そして非常にむつかしいことだが
その画面は厳しさゆえに終着駅は怜悧でシュ−ルな表現にまで至ればなどと思う。 
     
 作品を制作する時は、自分が何をしようとしているのか、目的をはっきりして取り
組まなければ、中途半端で終わる。ここでは、それぞれの目的が「蓮と蜂」(月例掲
載)のム−ド派と、「蓮 A」の即物、構造派をよく比較してみると、僕のいうこと
が理解できるはずである。
     
 今回も大切なテ−マについて話したが、他には、阿部君の「CoKe]など、意味
不明な表現だがこうしたトライも元気があってどうなることか楽しみだ。他の諸君の
作品についても話したいこともあるが、長くなるので本日はここで筆を置く。
     
(註)
     
 塾生各位の個々の写真についての質問などあれば、僕がおおむね在宅する週末から
週はじめ4日間位に、電話をしてくれば、僕が居れば即答できる。居なければ家人に
在宅日を聞いてもらいたい。                         
 僕はパソコンで書くより話す方がずっと楽なので、遠慮なく。         
 (在宅の確認は管理人ゆきに聞いても、だいたいの予定がわかるだろう)

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