月例会先生評(2001年6月)
今月も特にぼくがびっくりして、うなるような作品にはお目にかかれなかった。 そんな作品がぞろぞろ出てくるようだと、ぼくの講座も必要ないが。 塾生諸君の多くが写真への道をスタ−トしたばかりで、この道が遥か遠いからとい っても、ぼくは中途半端な見方はしない。世界の目、世界の水準で見ている。 塾生諸君が一生懸命やろうと、気構えが変わってきたのはよく分かる。そのうち誰 かが突然変異をおこして、僕にひと言の文句もいわせない作品が出てこないとはいえ ない。それまでぼくは気長に待つことにする。 いきなり厳しいことをいったが、ぼくは良い予兆も感じている。いい着眼点だがあ と一歩が足りない。本人はどこまで解っているか、それは本人は気づいていない気配 かも知れない。今回は、それらの作品を選び、考え方だけでなく、技術的なワンポイ ントも述べておくことにした。 |
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最近はマクロ・レンズが流行だが、ピントの浅さに辟易して花だけを写し、それを 支えている葉や茎を省略したり、意味不明なボケボケにして逃げている写真が多い。 この写真は、葉っぱの先を大胆に取り入れ、そこに射し込む一条の生の光りをキ− ポイントにして構成しようとしているところ、その新鮮味が僕の注目点である。 しかし、残念ながら、それは光りの読みが浅いことと技術的な不足から表現できて いない。このハイライトがすっかり飛んでしまうことへの技術的な対応は、プロは特 に万全の注意をはらうところだ。 普通にトレペなどで光りを弱めようとすると、ただの日陰になってしまって他の花 と同じ条件になってしまい、肝心の一条の生の光りの感じはなくなる。 そこで透明あるいは半透明のビニ−ル袋などを1枚にしたり何枚か重ねたりで光り のバランスをとる。これが成否の境である。 ぼくの場合は露出の正確さを得るため、角度1度の露出計を使っての部分測定を丹 念にやり、ぎりぎりのハイエストが飛ばぬよう、ラチチュ−ドに入る露出をする。も ちろん露出を半絞り段階で変えながら数枚を撮る。 僕は、それらを比較して見れば誰でもわかるように、フォトショップで無理を承知 でこの写真に修正を加えてみた。 |
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この場合、もっと絞り込んで、葉っぱも花と同じく、これくらいシャ−プにしなけ れば、花との対比での冴えた切れ味は保てない。ぼくは強いシャ−プをかけてそれら しくしてみた。作品にあいまいさは許されない。葉っぱの存在感を明確にするため真 ん中の筋は修正して出してある。キ−ポイントのひとつで、これをあいまいにしては この写真は成立しない。 最近の写真公募展では六ツ切で応募し、主な入賞作は主催者側が35ミリからB全 判に伸ばしてくれて展示されることさえある。その大伸しに耐えないものは落選だか ら入落はそんな紙一重、十分なシャ−プさへの配慮が必要だ。 小さなパソコン画面でやっと保つような作品作りだけでは勿体ない。この場合のバ ックの小さなボケの点々は、うまく生かされてホタルのようにキレイだ。 ぼくは意図不明、カラ−バランスのくずれたボケは、どうしてもいただけない。画 家は形としてはボケたような色だけでも構成するが、それは目茶苦茶な色の散乱では ない。しっかりと構成されてリズムがあり、美しく、あるいは意味を感ずる。 他のア−トの分野の人々から写真家は、色に関して甘すぎるといわれるのは嘆かわ しい。この講座で紹介した瑛九の「黄色い花」など参考になるであろう。 |
これは、多分林の中の水たまりであろう。映る太陽の形もなかなか良く、ゆらめく 樹木の抽象的な影をかなりうまく構成している。 これもフォトジェニックな被写体で、題材を広めもっと試みていいものと思う。
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しかし、ただ、これだけでは何となく物足りない。匂いはするが本体が見えない、 魚のおいしそうな匂いはするが、魚は見えないようなもの。 影のようなゆらゆらとハッキリしないものだと、ついピントも甘くていいように思 いがちだか、厳しい構成にはかえってシャ−プな表現がポイントになる。 僕はこの写真の印象がすこしでも強くなるようにと、色彩とコントラストを強くし 強いシャ−プもかけてみた。しかしそれでもなお感じるこの不足感を補うためには、 プラス・アルファ−としてのパンチある色彩としての変化か、このモノト−ンに近い 情景を引き立てる後少しの副材が必要だなと思った。 ぼくは、エルンスト・ハ−スのベネチァの作品で、水面にゴンドラと建物が反映す る見事な作品を思い出したが、これにはゴンドラの本体も少し写つていた。 ついでながら、今回の2人の女性の構図は、たまたま黄金分割の基本図といわれる 構成が共通し安定している。僕は古くさい構図にとらわれて形だけのまねをしても、 必ずしもいい作品にはならぬと考えているので、構図の話は滅多にしないが、この場 合は相対的な空間処理が良かったことが原因の大半である。 |
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これはポスタ−の本体そのものが破れた被写体として、雄弁に物語る作品である。 こうした被写体では、僕がしばらく住んでいた古都奈良で、天平時代のデザインをそ のままを伝承する土壁の、風雨に晒された美しさにみとれたことがあった。 隠れた日本の美といわれるものも多いのではなかろうか。そんな探訪も被写体に価 値があるだけに、力強いものができるだろう。このハ−スの構成は、黄金分割の基本 図ではなく、もっと優れた微妙なバランスがあり、強固な造形力から密度がある。 |
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この写真は、スナップ写真のセオリ−といわれる基本的な手法を知れば、格段の進 歩をするだろうという問題作として取り上げた。 それは1950年代に、下町の生活や子供を題材に、絶対非演出のリアリズム写真 を提唱していた土門拳が、具体的に話した実に有効な助言である。 「いい人物に出会ったら、何気なくその人について歩き、そのテ−マにふさわしい 場所でシャッタ−を切れ。いい雰囲気の場所を見つけたら、その場所にふさわしい人 が現れるのを待ってシャッタ−を切れ。」ということである。 この遍路は、片手で拝むといういわばひとつの定型をしているが、バックの風景に はこのシ−ンを支え、強める副材は見当たらない。 ごく一般的な考えなら、バックは寺の山門であったり高い石階段かも知れないが、 もし都心でこんな人を見つけたら、バックは超高層ビルを選んで、その対比から風変 わりなスナップにするかもしれない。 それでも尋常、一様な表現では、平凡で見慣れたスナップ写真になるかもしれない が、まず第1歩はここからはじまり、後はその写真家の見方、考え方、つまりその人 の哲学が決定的なチャンスを捉え、広く深い感動を与える作品として、定着できるか どうかである。 |
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