<玉井瑞夫繧繝彩色塾>

      

☆ ワンポイントレッスン (1) ☆

      月例会先生評(2001年6月)

 
  今月も特にぼくがびっくりして、うなるような作品にはお目にかかれなかった。
 そんな作品がぞろぞろ出てくるようだと、ぼくの講座も必要ないが。
 塾生諸君の多くが写真への道をスタ−トしたばかりで、この道が遥か遠いからとい
っても、ぼくは中途半端な見方はしない。世界の目、世界の水準で見ている。
      
 塾生諸君が一生懸命やろうと、気構えが変わってきたのはよく分かる。そのうち誰
かが突然変異をおこして、僕にひと言の文句もいわせない作品が出てこないとはいえ
ない。それまでぼくは気長に待つことにする。
       
 いきなり厳しいことをいったが、ぼくは良い予兆も感じている。いい着眼点だがあ
と一歩が足りない。本人はどこまで解っているか、それは本人は気づいていない気配
かも知れない。今回は、それらの作品を選び、考え方だけでなく、技術的なワンポイ
ントも述べておくことにした。

          

          「 あじさい 」   矢野昭子 原画

    

 最近はマクロ・レンズが流行だが、ピントの浅さに辟易して花だけを写し、それを
支えている葉や茎を省略したり、意味不明なボケボケにして逃げている写真が多い。
 この写真は、葉っぱの先を大胆に取り入れ、そこに射し込む一条の生の光りをキ−
ポイントにして構成しようとしているところ、その新鮮味が僕の注目点である。
     
 しかし、残念ながら、それは光りの読みが浅いことと技術的な不足から表現できて
いない。このハイライトがすっかり飛んでしまうことへの技術的な対応は、プロは特
に万全の注意をはらうところだ。                       
     
 普通にトレペなどで光りを弱めようとすると、ただの日陰になってしまって他の花
と同じ条件になってしまい、肝心の一条の生の光りの感じはなくなる。      
 そこで透明あるいは半透明のビニ−ル袋などを1枚にしたり何枚か重ねたりで光り
のバランスをとる。これが成否の境である。                  
     
 ぼくの場合は露出の正確さを得るため、角度1度の露出計を使っての部分測定を丹
念にやり、ぎりぎりのハイエストが飛ばぬよう、ラチチュ−ドに入る露出をする。も
ちろん露出を半絞り段階で変えながら数枚を撮る。
    
 僕は、それらを比較して見れば誰でもわかるように、フォトショップで無理を承知
でこの写真に修正を加えてみた。

     

           「 あじさい 」   矢野昭子 修正分

     

 この場合、もっと絞り込んで、葉っぱも花と同じく、これくらいシャ−プにしなけ
れば、花との対比での冴えた切れ味は保てない。ぼくは強いシャ−プをかけてそれら
しくしてみた。作品にあいまいさは許されない。葉っぱの存在感を明確にするため真
ん中の筋は修正して出してある。キ−ポイントのひとつで、これをあいまいにしては
この写真は成立しない。                
     
 最近の写真公募展では六ツ切で応募し、主な入賞作は主催者側が35ミリからB全
判に伸ばしてくれて展示されることさえある。その大伸しに耐えないものは落選だか
ら入落はそんな紙一重、十分なシャ−プさへの配慮が必要だ。          
      
 小さなパソコン画面でやっと保つような作品作りだけでは勿体ない。この場合のバ
ックの小さなボケの点々は、うまく生かされてホタルのようにキレイだ。
 ぼくは意図不明、カラ−バランスのくずれたボケは、どうしてもいただけない。画
家は形としてはボケたような色だけでも構成するが、それは目茶苦茶な色の散乱では
ない。しっかりと構成されてリズムがあり、美しく、あるいは意味を感ずる。   
      
 他のア−トの分野の人々から写真家は、色に関して甘すぎるといわれるのは嘆かわ
しい。この講座で紹介した瑛九の「黄色い花」など参考になるであろう。

               

           「 水面模様 」  梶山加代子 原画

    
 これは、多分林の中の水たまりであろう。映る太陽の形もなかなか良く、ゆらめく
樹木の抽象的な影をかなりうまく構成している。                
 これもフォトジェニックな被写体で、題材を広めもっと試みていいものと思う。
             

             「 水面模様 」  梶山加代子 修正分

     

 しかし、ただ、これだけでは何となく物足りない。匂いはするが本体が見えない、
魚のおいしそうな匂いはするが、魚は見えないようなもの。
 影のようなゆらゆらとハッキリしないものだと、ついピントも甘くていいように思
いがちだか、厳しい構成にはかえってシャ−プな表現がポイントになる。     
      
 僕はこの写真の印象がすこしでも強くなるようにと、色彩とコントラストを強くし
強いシャ−プもかけてみた。しかしそれでもなお感じるこの不足感を補うためには、
プラス・アルファ−としてのパンチある色彩としての変化か、このモノト−ンに近い
情景を引き立てる後少しの副材が必要だなと思った。              
      
 ぼくは、エルンスト・ハ−スのベネチァの作品で、水面にゴンドラと建物が反映す
る見事な作品を思い出したが、これにはゴンドラの本体も少し写つていた。    
       
 ついでながら、今回の2人の女性の構図は、たまたま黄金分割の基本図といわれる
構成が共通し安定している。僕は古くさい構図にとらわれて形だけのまねをしても、
必ずしもいい作品にはならぬと考えているので、構図の話は滅多にしないが、この場
合は相対的な空間処理が良かったことが原因の大半である。

            

                 「破れたポスター」  エルンスト・ハース 1960

    

これはポスタ−の本体そのものが破れた被写体として、雄弁に物語る作品である。
こうした被写体では、僕がしばらく住んでいた古都奈良で、天平時代のデザインをそ
のままを伝承する土壁の、風雨に晒された美しさにみとれたことがあった。
     
 隠れた日本の美といわれるものも多いのではなかろうか。そんな探訪も被写体に価
値があるだけに、力強いものができるだろう。このハ−スの構成は、黄金分割の基本
図ではなく、もっと優れた微妙なバランスがあり、強固な造形力から密度がある。

               

「 遍路 」  榎 義嗣

   

 この写真は、スナップ写真のセオリ−といわれる基本的な手法を知れば、格段の進
歩をするだろうという問題作として取り上げた。
     
 それは1950年代に、下町の生活や子供を題材に、絶対非演出のリアリズム写真
を提唱していた土門拳が、具体的に話した実に有効な助言である。
 「いい人物に出会ったら、何気なくその人について歩き、そのテ−マにふさわしい
場所でシャッタ−を切れ。いい雰囲気の場所を見つけたら、その場所にふさわしい人
が現れるのを待ってシャッタ−を切れ。」ということである。
     
 この遍路は、片手で拝むといういわばひとつの定型をしているが、バックの風景に
はこのシ−ンを支え、強める副材は見当たらない。               
 ごく一般的な考えなら、バックは寺の山門であったり高い石階段かも知れないが、
もし都心でこんな人を見つけたら、バックは超高層ビルを選んで、その対比から風変
わりなスナップにするかもしれない。
     
 それでも尋常、一様な表現では、平凡で見慣れたスナップ写真になるかもしれない
が、まず第1歩はここからはじまり、後はその写真家の見方、考え方、つまりその人
の哲学が決定的なチャンスを捉え、広く深い感動を与える作品として、定着できるか
どうかである。

   

        

                 

玉井の審査基準
     

     
 僕は、作品をすべて国際基準、つまり世界の水準で見る。
        
 *僕が自分の写真で作品と呼ぶものは、作品として著作権(知的所有権とみとめら
  れる思想・感情を創作的に表現した写真)を主張できる程度のものに限り、他は
  写真と呼び区別している。 
     
 *僕が世界の水準で見るというのは、写真家として多くの世界的なブランドを持つ
  会社の仕事をしてきたことと写真家協会の役員を11年間務めて、海外のプロ写
  真家との接触があり、現在の国際社会では国際基準でものを考えなければ物事が
  成立しないことからである。
       
 *僕がある作品の判定をする時は、1000枚以上の写真が並ぶ審査会場の中に、
  その作品を置いた映像を頭の中に浮かべながら、入落を判断する。
      
 クラス別けは、下記のとおり。大きく別けてA、B、Cとし、話す相手によっては
 上、中、下と呼ぶこともある。また、ABCの中でもさらに細分化して上中下をつ
 けて解り易くすることが多い。
    
       
 A(上)  日本、海外を問わず世界で認め、評価されるもの。
      
  A上  世界が認める歴史的な名作。
      歴史的な時代考証としての貴重な写真資料は、別途と考える。
  A中  ニュ−ヨク近代美術館など著名な世界的施設に収蔵されるもの。
      
  A下  日本、海外を問わず著名な美術館に収蔵、あるいは図録、写真誌、展覧
      会等に掲載され、作品として高く評価されるもの。
      
 B(中)  日本で認め、評価されるもの。
      
  B上  A下に準ずるもの。 プロ写真家の上位でこれに相当するものは、10
      パ−セント以内である。
  B中  プロ、アマを問わず、B上に準じて高い評価をうけるもの。
      プロ写真家の中堅。アマ写真家の数少ないトップクラスのもの。
  B下  B中に準じるもの。プロ写真家として協会への入会最低条件である。
      アマ写真家で年鑑招待をうけるトップクラスのもの。
     
 C(下)  日本で認められるもの。
   
  C上  プロ写真家の初級クラス。 
      通常、月例作家の上位の常連といわれるもの、キャリア−10年以上。
  C中  写真学校の4年生の上位の数パ−セント。アシスタント上位。
      月例作家の中位。キャリア−5年以上が多い。
  C下  プロ写真家のアシスタント。
      月例作家の初級。キャリア−2年以上。
      
   

 
 ★以下は塾生のみ伝える。 (一般には公開しないこと)
       
 塾生の大部分は、まだ「C下」にとどかず「D」クラスであるが、それはキャリア
不足と学習方法を知らなかったことにあり、致し方ない。すべてはこれからだ。
     
 僕は、今回の玉井選にそのまま推薦できる作品がなく、期待できる芽のある写真を
選び、たとえばこれが僕の案どうりになったものとして、どのクラスに該当するかを
考えて見たが、ちょうど「D」と「C」の接点あたりと判定した。
     
 当月例では、弟子互選の投票時にその作品を選んだ理由を書いたほうがよい。
コメントを書くためには、よりしっかりと見ることになり、選定眼の上達にも役立つ
であろう。選ばれた側も多種多様の見方がわかり参考の一助になるだろう。
 また撮影時の意図を含めてのディスカッションも良かろう。収拾がつかなくなった
り、あまり間違った解釈が出てわけが分からなくなり、僕の意見をもとめられれば僕
なりの答をしてもよい。
    
 撮影時の物理的テクニックや考え方としてのテクニックは、玉井流の5年を2年で
やってしまおうというテクニックのキ−ポイントの伝授で、全員に共通する。

               

 

講座についての感想とは

       
 ぼくは、弟子や多くの学生に「僕の真似をしょうとしても無理だよ。君たちはそれ
ぞれに与えられたものがあるんだから、自分を大切にしなさい」といってきた。
 「個性とは、周りから注ぎ込まれた知識の集積ではない。」「個性とは、自分で考
え、自分で求め、自分で作り上げた知能や性格の総合されたものだ。」ともいった。
      
 人間、百人百色の個性がある。ぼくが弟子たちにアドバイスすべきことは、その個
性を伸ばす妨げとなっているところを発見して、それを正確に伝えるのが究極の指導
である。しかし、これは大変なことで、僕にとっても非常に厳しい。
      
 当塾では、直接教室で話すようなチャンスはない。僕が塾生たちの写真への理解度
と感性を知り、適切な指導をする唯一の手がかりは、塾生各人の作品が示す予兆を見
逃さないことと、塾生が僕の講座を読んで書く評論と僕の作品にたいする批評あるい
は鑑賞の言葉の内容から推量することにある。 
      
 しかし、この講座の内容と僕の作品について「評論とか批評をせよ」というと不慣
れもあって言いにくかろうと思い、率直な「感想」のようなものでよいとぼくは言っ
たわけだ。緊張して無理な言葉を連ねた評論、批評はかえって空虚で分かりにくい。
言葉の長短は関係ない、素直な言葉の感想らしきもののほうが良い。
         
 ただ、講座の更新時に、「たいへん感想がおくれました」とか「遅ればせながら読
みました」などという態度と言葉は僕には理解しかねる。入塾のル−ルとして、塾生
は僕とは師弟になったことを忘れたか、また「信義と礼節をわきまえる」ことを、安
易に考えているのではないか。
          
 僕の体験では、ぼくの個展のオ−プニングに、やむを得ぬ仕事で顔を見せられない
弟子は、その旨本人からスタジオへ電話で丁重な挨拶があり、その後なるべく早く僕
が会場にいる時間をねらってやって来る。会期の終わる頃にやって来て、簡単に「見
ました」などという非礼な弟子は、一人もいない。               
 僕も弟子と待ち合わせる時、必ず5分前にはその場所へ行くようにする。目下だか
ら少々遅れてもいいなど考えたり、遅れることは、恥ずかしいことだと思っている。
      
 僕にとって、新しい講座原稿を毎月2回くらい書くのは、個展をやるより厳しいも
のといえる。言葉づかいも要注意である。率直に言えば、僕の掲載しているものは、
講義も写真も作品である。弟子たちは、ぼくの作品に対して「読ませていただき、拝
見させていただく」という。激しく変身しようとしている弟子たちは、かなり大胆不
敵なことをいうが信義礼節はわきまえている。写真家である前に謙虚な人間である。
 そんな弟子は、写真家としても世界のどこへでも安心して送り出せる。
    
 僕がこんな道学者めいたことを言うのは、古い大正生まれだからではない。
 ぼくは、まず人間として至極当たり前の常識をそなえていること、また学ぶものは
殊更に謙虚でなければ人間関係は保てないという常識をいっているに過ぎない。  
 ぼくが師弟としてのタッチ・トレ−ニングで才能を伸ばすには、特にやる気と信頼
関係が大切だということを長い体験から不可欠と痛感したことから、それを入塾条件
の1、2番目に書いた。
       
 だらだらやっている者で、上達した者を見たことがない。ぼくが5年でやるところ
を2年でやろうというのは、教わる側の才能にもよるが、師匠である僕のほうが弟子
の方へ歩み寄り、そのレベルとベ−スでやっていたのでは、その辺の添削通信や写真
教室になってしまい、上達など到底おぼつかない。               
 この塾では僕のほうがベ−スなのだ。それ以外に上達の道はない。       
      
 やる気があって努力してもなお届かない者はそれなりの貴重な体験が残るが、あく
びをしながら何となくやっているのではまったく意味がない。ぼくは、昼寝をしてい
る者を起こしてまで注意をする趣味はない。                  
 まして、弟子が人間的に欠陥商品では信頼関係など保てるわけがなく、5年のとこ
ろが10年、20年やっても行き着かないだろう。ぼくは残り少ない人生をそんな暇
つぶしで生きるつもりは毛頭ない。
     
 僕は本来の仕事があり、この講座はその合間にと思っていたが、講座のための調べ
物の時間と生来の遅筆とキ−ボ−ドを打つのが遅くて、半分以上の時間を割くような
はめになったが、頑固な性分から、ますます生真面目になって何とか続いている。
       
 書く気になっている時でなければ筆が進すまないので徹夜も多い。やはり年齢から
の体力の減退を痛感するが、でき上がった原稿を期待してくれている人もあるので気
分を引き締め、体調には注意している。
 そのうちに、「僕は何を言われても平気だ。だから君たちも僕に何を言われても平
気だという作品をつくってくれ」という日が早く来ないかなと思う。
     
 一般に「自由」という言葉の安易な解釈で、前頭連合野の意志力が鍛えられていな
いことが多い。意志力を鍛えることは、精神活動や行動に抑制をかけることである。
 塾生各自が自分の上達の目安として、各自の現在のスタ−ト時点を「C」あるいは
「D」の上中下のどの地点にいるかを自分なりに決め、それをどんどん越えてゆこう
という姿勢、ある種の規制を自らに課すのはどうだろう。
     
 僕の場合は、人が5年かかるなら2年でやってしまおうと決め、意志を強くすれば
何とかやれたように思う。 一番いけないのは、いわゆるモラトリアム人間で、その
うちに何とかするなどと言いながら、強い意志に欠け自分でしかやれないことさえ、
すべてを先送りするフリ−タ−のような姿勢だと思う。             
      
 ルネッサンス時代はひとりで2つ、3つのスペシャリストになるのが、当たり前だ
った。そんな多彩な人がたくさんいた時代は面白かったであろう。僕がルネッサンス
期に生まれたかったとよく言うのは、そんなことからである。
     
 人生は仕事ばかりではない。竹村健一、大前研一、ソニ−の盛田さんなどのグル−
プがレジヤ−、スポ−ツ、趣味などを大切にし、それぞれにけじめをつけ仕事と両立
させた生活をしてきたのは、すばらしい人生のあり方だと僕は思ってきた。    
     
 もし、この塾で写真は単なる趣味の暇つぶし、その対応は後回し、適当でよい、と
考えているものがあれば心得違いだ。写真は自分を表現しア−トにもなりえるもっと
も新しい表現手段である。そんなに甘いものではない。             
 僕は写真で生きてきた者として、真摯に対応しているつもりだ。無料のボランティ
アだから適当でいいなどと考えたこともない。                 
      
 ぼくは写真というものが、単なる趣味だけでなく、それ以上の何かがあると考え始
め、トライしてみたいという人たちに、僕でよければ手を貸そうというのが、こうし
たアマチュア写真家へのボランティアになった。                
       
 それをもっとも効率の良い形でやろうというのが、学校での先生と生徒という関係
よりもう一段密接な師匠と弟子というこの塾である。これは師匠と弟子の人間関係、
信頼度がキ−ポイントになる。                        
 日本では倉本創、仲代達矢の塾、アメリカでは現代トップの写真家リチャ−ド・ア
ヴェドンやア−ビング・ぺンなどを育成したアレキセイ・フロトウィッチの触感体感
教育(タッチ・トレ−ニング)であることはすでに講座で述べたことである。
     
 僕自身については、師はもちろん前衛画家瑛九氏と写真評論家渡辺好章氏のお二人
りであり、多くのタッチ・トレ−ニングを戴いた。お二人ともすでに他界されている
が、生存中に戴いたさまざまなアドバイスは今なお生きており、つい先頃のことのよ
うに思える。    
     
 先日、瑛九夫人を訪ねた時、玉井さんは私より瑛九と長く話し合っただろうといわ
れ本当に恐縮した。都夫人の結婚生活は10年間、僕が瑛九宅を訪ねたのは8年間で
あったが、ぼくたちが毎度夜遅く帰った後は瑛九は制作に没頭し、ゆっくり話すこと
が少なかったといわれた。ずいぶん僕たちは瑛九の貴重な時間を戴いたものである。
 残念なことは、ぼくはそれに答えられるだけのもの、瑛九を越える作品を未だ創作
できずにいることを申しわけなく思う。

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