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−ご挨拶−
この度は、日露合気友好協会にご理解をいただき本当にありがとうございました。ご承知の
様に、現在のロシアは八月末からのモスクワでの爆弾テロに見られるように大変不安定な情勢が
続いています。そのために来春二月の口シア訪問予定は数ヶ月の延期を余儀なくされています。
訪ロ日程が決まり次第、会員の皆様方にはご案内を差し上げます。
 今面は、紙面の関係で98年夏の遠征の一端をご紹介いたします。通訳の労をお願いした白石
恭子さんの「クルスク点描」と、現地の新聞に載った記事から抜粋したものです。

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赤の広場 (左手クレムリン) クルスク市長表敬訪問終わる、クルスク市庁舎前

クルスク点描
私のホストであるビーカーさんの部屋の長椅子に横たわり、目を閉じると5、6人のE・Tに顔を
覗き込まれているような感じの残像が浮かんだ。
私たちはその日、ジェニス君の家で昼食をご馳走になった。古ぼけてペンキの剥がれ落ちそうな薄
暗いアパートに入り、がたがたと軋むエレベーターで上がっていくと、再び薄暗い廊下に出た。すぐ
側の分厚い木製のドアを開けると、そこが彼の家だった。薄汚れたアパートの外観とは対照的に、中
は明るく広々としていて洗練された雰囲気だった。広い部屋のやや壁寄りに真白いクロスをかけた大
きな長方形のテーブルがあった。テーブルの上には沢山の料理がきれいに並べられていたが、それが
何であったか今となってはすっかり忘れてしまった。あちこちでよく出されたのは、ピーマンの中に
米と挽肉を詰めてスープで煮た料理だった。これはクルスクの代表的な家庭料理のようだったが、長
旅の疲れていた私には少し「むつこい」感じがしてあまり食べられなかった。それでも他の料理はお
おむね満足のいくものだった。ロシア料理は口に合わないかも知れないとカップ麺をたくさん持参し
ていた宇野先生は、それがとりこし苦労であったことをすぐに思い知らされた。
カーター元米国大統領を思わせるトラクター製作所勤務のジェニス君の父親は、いくつか料理を運
んだ後、にこやかに部屋の入り口に近い席に座った。私たちは一番奥の席で、三十度と言う暑さの中
での合気道講習会で疲れた体を休めていた。 両サイドにはクルスクの合気道クラブの主なメンバ
ーがかしこまって座っていた。 この時、私は何故こんなにロシアがよく聞き取れるのかと、自分で
も不思議なくらい、みんなの会話を同時通訳さながらに訳すことができた。
思えば十年程前、北条市にお住まいのスベトラーナさんの元へロシア語を習いに行き始めた頃は、
ラジオで基礎は学んでいたものの「本」という意味の「クニーガ」という一言すらなかなか口から出
てこなかったことを覚えている。あの頃の私は、ロシア語の単語がまるで実感の伴わない数字か記号
のように思えた。だから、会話をする時もまるで2プラス3イコール5と計算するような感覚で喋っ
ていた。いつ頃から話しているという実感がもてるようになったかは分からないが、今では時折、こ
ういう場合にはロシア語のこの言葉がぴったりなんだけど、日本語にはないなあと思える時があった
りして嬉しくなってしまう。
食事の後、音楽家のミーシャさんが、日本から持参した和太鼓の演奏のテープに合わせて、ギター
の板の部分をリズミカルに叩き始めた。私たちはその見事でエネルギッシュな即興演奏に聞き惚れ、
そしてやんやの拍手喝采をおくった。音楽の持つ力により日本人とロシア人がひとつに解け合い、民
族と言葉の壁がなくなってしまったようなひと時だった。
決して器量に恵まれているとは言えない私が、人々の視線を感じるなどと言うことは滅多にない。
ところが、たった一度だけスベトーラナさんと北条市郊外のレストランに行った時のことだった。私
たちがレストランに入った途端、中に居た人たち達が一斉にこちらを振り向いた。もちろん全員スベ
トラーナさんを見たのに違いないが、私はこの時、視線というものは集まると結構すごいものだなと
思った。
そういうわけで、人目を引く何物も持たない私が突然十数人の大きな青い目の視線を浴び続けた結
果、それが目に焼き付いてしまい、夜になって瞼の裏に残像として現れなかな消えなかったのである。

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クルスク州庁舎 レーニン像 独ソ戦時の戦車前クルスク市 モスクワ・オスタンキノTV塔

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